その他芸術、アート
2018年04月25日
芸能、芸術 小津安二郎、黒澤明
文学、音楽、映画、その他、芸能、芸術と呼ばれるものの全てで、作者あるいは、演者の人間性を強く感じることがある。
もちろん感動した時である。
たとえば、文章を読むとき、文意をとらえることばかりでなく、作者の人間性を感じながら、読み進めているのである。
私は、これが文学であると思っている。
芸能、芸術と呼ばれるものは、人間の魂に触れたいという、人々の欲求が作り上げたものである。
以上のことは、このブログで何度か書いてきた。
都築政昭の 「小津安二郎日記」を読む のあとがきに、黒澤明が小津安二郎を語った言葉が出ている。
引用する。
世界的な偉業を果たした巨匠黒澤明は、ダイナミックで劇的な映画を得意として、小津とはまったく作風の違った監督である。その黒澤が、晩年にはよく小津の映画をビデオで見ていた。
「この間も夜一人でレーザーディスクの小津さんの『麦秋』観ていたら、真夜中なんだけど、なんか涙が出てきてね。それは結局何にうたれたかというとね、小津さんという人なんですよ。小津さんという人物にうたれるわけね。それが全部作品化して滲み出ているでしょう。小津さんに会った時のことだとか、そういうことを思い出して、たまんなくなっちゃうわけです。すてきな人だった」(ユーモアの力・生きる力』井上ひさしとの対談『全集 黒澤明』第六巻、岩波書店)
やはり黒澤明はすごい人なんですね。
なにげない言葉の中で、芸能芸術の本質を語っている。
映画のこの場面は、こうこうこういう意味を持っているとかの頭の良い人が語る細かい解釈も大事だろうけれど、まずは感動が無ければ芸能芸術の意味はない。
その感動は、作者あるいはその作品にかかわった人々(たとえば演者)の魂に触れた時にもたらされるものと私は思っている。
芸能芸術の喜びは、人間に触れる喜びである。
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2016年02月07日
芸術、芸能
芸術と芸能について考えている。
本質的な意味において、芸術と芸能に差異はないというのが、私の考え方である。
その本質は、自己表出である。感覚の領域である。
一般に考えられている、芸術は上位に位置し芸能は下位などという馬鹿げた考え方を、私はとらない。
能や歌舞伎は、世界で認められたから、芸術分野に昇格させようなどという芸術側の思いあがった考えには嫌気がさすほうである。
だいたい、ジャンルで上下関係が決まるなどありえない話だ。
その分野に従事する個々の人間の覚悟の問題であり、他人(ひと)の心をどれだけ揺すぶることができるかの問題である。
その他人(ひと)の心とは、未来の他人(ひと)である可能性もあるのだ。
時代を先取りして歩む真の芸術家や芸能家が、貧困に喘ぎ、蔑(さげす)まれてきた例など枚挙にいとまがない。
後世になってようやく評価されるのである。
創造の苦しみに耐えながら、日々努力する芸能家や芸術家もいれば、俺は偉いんだと、ふんぞり返っている馬鹿者もいるということだ。
ジャンルではなく、個々の人間の問題である。
現代においては、芸術という言葉は鼻高々、芸能という言葉はちょっと控えめ、の語感がある。
芸術という言葉には、スノッブさがつきまとう。
芸事に関する限り、「俺は河原乞食なんだよ」と自嘲する人間のほうが、信用できると私は思っている。
芸術は上で、芸能は下などという考え方は間違っている。
能や歌舞伎が、芸能から芸術に昇格する筈もない。
移ったとしたら、ただ横に移動しただけのことである。
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2015年08月01日
音について
私の場合、音の良し悪しは、聴き始めて数秒で決まる。
なんら特殊な能力ではない。
私の店の懇意のお客様は、ほとんどがそういう方たちである。
そういう方たちしか、私の音を気に入ってくださらないともいえる。
だから話が早い。
理論と論理を駆使して、音を語る人たち、それでいて大した音も出せない人たちが多すぎる。
音の良さを科学的に説明してほしいという。
音の良さに理由が必要なんですか。
音を聴けば、すぐにわかることなのに。
感じればよいだけである。
私は、音は芸術であると思っている。
ただ、この芸術の「術」が曲者である。
まるで、素晴らしい芸術作品を創り出す術(すべ)があるかのように感じさせる。
すべがあろうはずがない。
芸術は個々の人間の表出なのだから。
いやな言葉だけれど、芸術の前に、「高尚な」という修飾語が付く。
私は、芸術は官能を刺激するもの、ととらえている。
その喜びは、性的な喜びに似ている。
性的喜びに、「高尚な」という表現はふさわしくないと思う。
高尚なセックスなど、勘弁してほしい。
かつて、岡本太郎がテレビに登場し、目をひん剥いて、「芸術は爆発だ」と叫んでいるのを見た。
私は美術的能力が全くない。
だから、この人は異常な人か奇を衒う人かのどちらかであろうと思った。
今は何が言いたかったのかが分かる気がする。
人間の中から出てくる爆発なのである。
芸術は、理路整然と出来上がるものではない。
その人の感覚にかかっているのだ。
小津安二郎の言葉を借りるなら、
「文法はない」のである。
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2014年05月13日
東京物語 小津安二郎
大学を卒業し、私立の高校で講師をしていた時の話である。
週1回、午前中だけ授業を受け持っていた。
午後は暇になる。
帰り道の線上にある銀座に立ち寄り、必ずと言っていいほど並木座で古い名画を観た。
多くの名画を見たはずなのに、今も記憶に残っているのは、川島雄三監督の「幕末太陽伝」、稲垣浩監督の「無法松の一生」、小津安二郎監督の「東京物語」である。
幕末太陽伝は、喜劇であるはずなのに、後に残るのは哀しみや諦めの感覚を感じさせる不思議な映画であった。
とにかく非凡な才能を感じさせる監督だと思った。
のちになって、森繁久彌が、「川島雄三監督は、あれほどの才能がありながら大した作品を残さなかったのが残念だ」というのを聞いても、幕末太陽伝だけで十分じゃないかと思ってしまうほどでした。
いけない、ここでは東京物語のことを書きたいのである。
並木座で東京物語を見た時、こんなすごい監督がいたのかと衝撃を受けた。
私から見れば豊かとも思える中流階級の平凡な日常を描きながら、画面の緊張感で、人の心を捉えて放さないのである。
私が観てきた日本映画の中で、最高の傑作であると思った。
これは日本文学であると感じた。
こののち、小津安二郎という名前が記憶に残った。
すると聞こえてくるのである。
海外で、人気がある監督だというのである。
何だろう、こんな些細な日常の機微を描いた映画を、どうして外国の人に理解できるのだろうか。
このような感覚は日本人特有のものであって、外国人にはわからないはずなのにと思った。
いまだによくはわからない。
おそらく私の中の、日本人にしかわからない機微と勝手に設定した思い込みに、ずれがあるに違いない。
日本的と勝手に思っているものが、私の想像よりもはるかに普遍性のあるもののようなのだ。
先日、映画関係に従事されているお客様とお話ししていた。
当然映画の話にもなる。
興味深いお話を伺った。
2012年英国で、映画に関する投票が行われた。
今までに作られた世界の映画の中で、最高傑作と思われるものを全世界の映画関係者に選んでもらったのである。
世界の映画監督による投票では、小津安二郎の「東京物語」が第1位になったという。
このことを、私は知らなかった。
私だけだろうか。あまり話題にもならなかったように思える。
このような監督を持ったことは、日本人にとって誇りだと思うのですがね。
とにかく、私の考える日本的なるものは、間違っていますね。
微妙な顔の変化、ちょっとしたしぐさから、他人の心を読むなんてことは、日本人に固有のものではなく、どこの国の人々もやっていることなんですね。
著作権が切れたせいでしょうか、9枚のDVDの入った小津安二郎大全集が2千円以下で買えるのです。
白黒で傷みの激しいものもありますが、どの映画も質は高いです。
特に原節子主演の紀子3部作、「晩春」「麦秋」「東京物語」は、画面も綺麗で見応えがあります。
断っておきますが、私この会社の回し者ではありません。

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2010年08月19日
ゲゲゲの女房 その3
ゲゲゲの女房を視ていて感じることは、芸術家の評価がいかに難しいかということです。
水木シゲルは、たまたま大手出版社に見る目を持った編集者がいたから脚光を浴びることが出来ました。
これが何を表すかというと、このような僥倖にめぐり合うことなく埋もれていった夥しい数の芸術家が存在することを示しています。
つまり、芸術を専門とするプロ(評論家等)でさえも、真の目を持つ者は稀であるということです。
彼らプロは、後付が得意なだけに過ぎない者がいかに多いことか。
何の評価も確定していない芸術家の作品に、これはすばらしい傑作であると言い切ることは、ある種の覚悟を必要とします。
こんな作品を良いというなんて、こいつは見る目が無いと見なされてしまう可能性もあります。
そんな恐れを抱きつつ、やはり良いと言い切ること、これには覚悟が必要です。
これをプロに期待するのは酷というものです。
私の芸術的センスは、大変狭いものです。
文章を読んで、夢中になることは出来ます。
音が良いかどうかも分かるつもりです。
ただし、音を細かく解析することは出来ません。
情趣を持った音であるか、太い音が出ているか、私の分かるのはこれだけです。
これで充分です。
私は、音も芸術であると思っているのです。
話がそれました。
云いたいのは、芸術はジャンルではないということです。
今考えているのは、浮世絵です。
浮世絵と漫画の相似性です。
絵画については全く分かりません。
ただ想像で考えているだけです。
たぶん、江戸期、プロたちの浮世絵に対する芸術的評価は低かったのではないかと思われます。
狩野派などの正当な系譜を引く絵画に比べたら、反故のような存在であったのでは。
陶磁器を外国に送る際、それを包む緩衝材として浮世絵が使われたそうです。
そんな扱いを受けるほど浮世絵は評価が低かったのです。
受け取った西洋人たちは、この包み紙に魅了されました。
正当な系譜を引く絵画は、武士や知識人のものであり、浮世絵は庶民のものであったはずです。
そう考えれば、浮世絵の評価が日本で低かったのも当然です。
真の評価を与えたのは、その様な固定概念にとらわれない西洋人でした。
漫画(アニメ)が、海外で評価され、それを受けて、日本で再評価されたと同様です。
浮世絵を支えた江戸庶民(特に商人を中心とする町人)にはエネルギーがあった。
旧態然たる正統派の絵画に比べて、そのエネルギーに支えられた浮世絵が、世界的評価を受けたのも当然だったように思えます。
まあ、絵画の分からない私の意見も後付にしか過ぎませんが。
浮世絵や漫画は、かつて芸術とは無縁のジャンルでした。
浮世絵や漫画を考えると、芸術はジャンルで決まるわけはありませんね。
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