2025年03月30日
人は言葉でなくても考える
若いころ、「人は言葉で考える」 と書いてあるのを本で読んで、思いもしないことであったので、大いに驚いた。
自分の中で検証し、その通りだと納得したのである。
なぜ納得してしまったのであろう。
言葉を使わず考えるなどということは普通にあることなのに。
例で示そう。
私は、英国製の古いオーディオ製品を扱っている。
動作しないターンテーブルを修理することもある。
古いものだから、交換部品もないことがほとんどである。
工夫をしなければならない。
頭の回転の速い方ではないから、初見では何が何だかわからない。
我慢して、時間をおいて何度か見ているうちに慣れてくるのか、次第に動作が見えてくる。
そのうち、実物を見ていなくても、ターンテーブルの画像が頭の中に描き出される。
動きを考える。画像のままで考える。頭の中で動かしてみる。
言葉は入り込まない。
こんなことも起こる。
全く違うことをしているときに、急にターンテーブルの画像が現れ、解決策が示される。
一種のひらめきというものだろう。
以上のことは、言葉がなくても起こることである。
言葉は、情報伝達のためにはよい武器である。
しかしながら、自分以外の人に伝えるために、言葉は抽象化されなければならない。
例えば、「犬」という言葉を考えてみよう。
ある人にとっては、一番なじみの犬は土佐犬であり、他の人にとってはポメラニアンだったりする。
人は、大きさ、顔かたち、様々に異なる犬種をいっしょくたにして犬という。
抽象化が行われているから、犬で伝わるのである。
情報伝達のためには、この抽象化は必須のものである。
発明、発見をもたらす「ひらめき」を引き起こすためには、抽象化された言葉ではなく、五感が受け取ったもっとみずみずしい感覚の集積が必要ではないかと思うのです。
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