2025年02月07日
”考える”を考える
幼いころ、自分が考えていない時など、ないと思っていた。
常に考え事をしていると思っていたのです。
時が流れ大人になった時、幼いころ考えていると思ったのは、考えていたのではなく、感じていただけのことだったのではないかと気づいたのである。
感じたことを考えていたと勘違いしたのだ。
さらに私に衝撃を与えることが起こる。
本を読んでいて、「人が考えるときは、言葉で考えている」と書かれていたのである。
思ってもいなかったことであった。本当に言葉で考えているのだろうか。
それで検証してみた。
考えているとき、言葉で考えているのかを、自分の頭の中で探ったのである。
結果、確かに言葉で考えている。
受け入れた。
さて今の私は、どう考えているのであろう。
必ずしも、言葉だけで考えているわけではないと思っている。
感じていると意識すること自体が考えているといえるのではないかとも思っている。
感じることこそが、自ら考える源泉ではないだろうかと今は考えている。
例えば、
爽やかな5月の風が頬をかすめてゆく。
ああ、心地よいなと感じたとする。
心地よいという言葉を知らなくても、その心地よさを味わうことはできる。
その心地よさそのものの感覚として記憶される。
脳で感じ、脳に蓄積される。
まさに考えていることにならないだろうか。
あるいは、考えることはここから始まるのではないか。
もう一つ例を、
風呂に入り、湯船につかり、ふっと息を吐く、ああ心地いいなと感じる。
この心地よさは、風の心地よさとは異なり、風呂の心地よさとして、記憶される。
脳で起こり、脳に蓄積されるのである。
考えていることにならないか。
さて、風の心地よさと、風呂の心地よさは、異なった感覚てある。
脳には異なった感覚として蓄積されているはずである。
ここで、心地よいという言葉が、幼い私に外部から与えられる。
異なった感覚であるが、気分を良くしてくれるものとして、心地よさという言葉に収れんする。
風の心地よさも、風呂の心地よさも、いっしょくたの心地よさになる。
言葉の抽象化である。
言葉は情報伝達にとって大変有効な武器である。
半面、風と風呂のように、具体的な感覚をあいまいにしてしまう。
ああ、横道にそれた。
幼いころの考えるである。
幼いがゆえに、言葉がふんだんに備わってはいなかった。
言語化することもなく、感じていることを蓄積し、過去に感じたことを思い出し、追体験するなどのことを頭の中で目まぐるしく繰り返しながら、それを考えると判断していたようである。
だから、大人になっても、言葉で考えるということをすぐには受け入れられなかったのだと思う。
幼いころ、いつも考えていたということは、ある意味正しかったように思える。
言葉で考えていなかったとしてもである。
私は、大人になった後も、言葉に頼らず考えていることもあるのではないかと思っている。
とにかく、自ら考え始める原動力として、感じることが重要だと思うのである。
感じる能力を持つことは、知識や論理と同様に、いやそれ以上に、人間にとって大事な能力であると思っている。
様々な文化があったとしても、感じる能力を基本とする芸術が、それぞれの文化の中で、重要な位置を占めています。
無意識であっても、感じる能力の重要性を人間はわかっているのです。
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