2026年02月

2026年02月05日

オーディオは芸術に属する


 私が以前から言っていることですが、オーディオは芸術に属するのです。

私が最も強調したいことでありながら、わかっていただける方がなかなかおられないのです。

ここで芸術という言葉が理解を阻んでいるのかも知れません。

お前のような俗人が、芸術などという高尚な言葉を使うなと言われそうです。

芸術が高尚であるならば、仰る通りですが、私は芸術を高尚なものとは思っていないのです。

私は芸術を高尚とは思ってはいませんが、芸術は高尚であるという社会通念があります。

その社会通念の中に生きる私は、芸術という言葉に気恥ずかしさを感じるのです。

それゆえ、芸能芸術という言葉を使ってきました。

芸能という、よりニュートラルな言葉で、芸術という言葉が内包する知性による偏向を薄めたいと思っていたのです。



それでは、私が考える芸術という言葉を定義してみましょう。

人間は感じる能力を持っている。

この感じる能力が、芸術の源泉である。

外部からの刺激に対して、繊細な感じる能力を持った人がその刺激を受け取り、そこから作品を創造する。

作品は、文学、絵画、音楽、何でもいい。

味覚で言えば、料理である。

料理は、芸術の最たるものと私は思う。



出来た作品を受け取り、感じ、感動する人たちがいる。

それも、日々の生活の中に、本を欲し、絵を鑑賞し、音を欲する。

美味を堪能するのは、最も多くの人が喜びとするものであろう。

これらが芸術である。高尚である必要はない。



まさに人の感覚的な好みに依存するものが芸術である。

料理がわかりやすい。甘党もいれば辛党もいるのである。

万人が好む絶対のものなどありえない。

故に正解はない。

比較的多くの人が好ましく思うものが存在するだけである。

正解ではない。



学問とか、科学のように真理を追究する分野とは異なるから、芸術という分野が作られたのである。

芸術は人間の感覚的な好みに依存する正解のない分野である。

論理は重きを置かれず、直感が必須である。




人間の好き嫌いを感じる能力は、人間の生存にとって重要だったから与えられたものでしょう。

多くの人が好ましいと思う方向へ行けば、通常安全だったのである。

ではなぜ全員が同じ好みを持っていないのか。

絶対の安全がないからです。

通常安全な方向も、時として危険であったりする。

絶滅は避けたい。

他人とは違う好みを持っている人も必要です。

少数だが、その人たちが生き残る。

人類の生存戦略として、通常とは違う好みの人も大切です。



現代は、社会的な防御態勢が出来上がり、個々人が判断しなくても安全性が担保されている。

自分の好みを意識しなくても、安全に生きていける。

自分の好みがわからない人が増えてきているようだ。

音がいいかどうかなど、そんな難しいことわからない、こんなオーディオマニアがいるのです。

意外と多いのですよ。

味のわからない料理人みたいなもんです。



人が外部の刺激から受けた感動を作品に創造し、その作品を受け取った人が感動する。

感動の伝搬が行われるものが芸術作品です。

感じることが基本です。

感動できるものであれば、知的でなくてもいいのです。

高尚である必要はありません。



世界に冠たる北斎。

幕末から明治の時代、浮世絵など庶民の愛好するもので、決して高尚なものではなかった。

輸出する陶器の緩衝材として浮世絵を使っていたことを考えても、一歩間違えればごみとして捨てられるほどの低い評価だったのです。

現在、北斎の作品は高尚と評価されているのでしょう。

当時、低く評価していたのは、知識人や、絵画の専門家でしょう。

彼らは浮世絵は庶民のものだから低く見ていた。

高尚かどうかなんて、あてにならないのです。

時代、社会状況によってころころ変わるものです。



専門家の評価などあてにできない、自分の感覚を信じることです。


gtkaudio at 12:46|PermalinkComments(0)