2023年01月
2023年01月23日
古いDeccaのアームをXMS用に改造

古いDeccaのSP専用アームをXMSのカートリッジが使えるように改造した。
大まかな構造は、放送局で使われていたXMS専用12”アームと似ていたので、どうにかなると思った。

上が改造アーム
カートリッジの受け口の構造が異なり、内径もXMSが入るには少し細い。
内径を広げるためにやすりで削ったのですが、かなり時間がかかった。



元のカートリッジと受け口
元のカートリッジは、押し込んで右に回転させロックする方式である。
豆電球に、似た構造のものがある。

12”アームの先端は、少し上向きになっている。
針が、レコードの盤面に垂直ではなく、少し前に突き出すように、先端を上向きにしているようだ。

改造したアームの先端は上向きにはなっていないが、装着したら、取付位置が低く、全体的に先端が上向くことになった。
まあ正確ではないだろうが、良しとする。
元のカートリッジとLP用XMSの自重はほぼ同じであった。
元のカートリッジの針圧はSP用だから、20グラム程である。
おもりを足して、LP用XMSの8グラムほどにした。
こんな時、天秤方式のアームは扱いやすい。

9”もない短いアームなので、オーバーハングを13㎜取るにしても、取付位置はかなり前になってしまった。
まあ、オーバーハングなんてそんなに神経質になる必要はないけれど、一応13㎜は取れた。
さて、テストである。
ついでに、古針と針交換した0.7mil,1.0milの3種類の針で同じレコードを鳴らしてみました。
古針は1.0milよりも太いと思います。
針が太いほど、太い音がするのですが、YouTubeでわかるでしょうか。
0.7mil. 上を向いて歩こう 坂本九 Sukiyaki Kyu Sakamoto Decca tonearm XMS用に改造
1mil. 上を向いて歩こう 坂本九 Sukiyaki Kyu Sakamoto Decca tonearm XMS用に改造
古針 上を向いて歩こう 坂本九 Sukiyaki Kyu Sakamoto Decca tonearm XMS用に改造
今回、レコードを再生した時の音と、デジカメで撮った音を比較して、ずいぶん違うものだと思いました。
レコードを再生した時、曲全体を通じて、ベースの音が途切れることなくはっきりと鳴っているのですが、デジカメで撮ると全く聞こえません。
重低音というほどの低音でもないのに、こんなに低域の音は嫌われているのですかね。
レコードでも、ベースの音をうまく録音しているものは少ないのですが、こんなにまるっきりなくなってしまうなんてことはない。
以前のブログ「デジタルと低音」で書いたオーロラの話を思い出してしまいます。
2023年01月14日
音は芸能芸術
一つ前のブログで、音は芸能芸術分野に属すると書いた。
ならば、私の考える芸能芸術の定義が必要になる。
私は考えることは好きだが、他人の書いた芸術理論などは読んだことがないので、つまり知識がないので、独善的なものになるが、私の意図をわかっていただくには必要なものと思われるので、書いておく。
つまり、芸能芸術の客観的な定義を目指しているわけではない。
私の場合、音がいいなと思うのは感覚的なものである。あまり時間はかからない。
この感覚的というのが、芸能芸術の肝であるように思えて仕方がない。
なぜいいかと訊かれて、うーんと口ごもってしまうのである。
いいと感じたからというしかない。
音の良さを説明できないなら、音がわからないのじゃないかと言われれば、そんなことはないということはできる。現実にいいと感じたのは事実だから。
芸能芸術とは、論理的に解釈するものではなく、感覚的に、人に喜び、感動を与えるものと私は解釈している。
ならば、感覚的とはどういうものであろうか。
考えてみる。
五感というものがある。
外界の刺激に対する人間に備わった器官である。
生存のためであろう、危険を示す刺激に対して身構えるようにできている。
危険でなくとも、刺激に対して、好悪の感情を抱くように人間は作られているらしい。
例えば、好ましい刺激が五感で受け取られ、脳に運ばれ、ああ気持ちいいなと感じたりする。
すべての判断が脳だけで行われているか、あるいは脳と五感とのコラボレーションで行われるのかは、私にはわからないが、今はそれが問題ではない。
この経過は瞬時に行われ、論理の介在は皆無である。ここが大事なところだ。
どこがいいのかわからない。それでも、観るたび聴くたびに感動する。それが許されるのが、芸能芸術である。
ほかの分野では許されないのであろうが、感動があれば、すべて許されるのである。
例えば、年端もいかない少年が、到底理解できないと思える本を夢中になって読んでいる。
書いてあることを理解しているかはわからなくとも、著者の人間としてのたたずまいを常に感じ、それに導かれながら読み進め、感動していることだってある。
書くということが、最初は情報伝達の手段であったものが、読み手の心を動かし感動を与える手段でもあると分かった時、文学が生まれた。
文学は芸能芸術に属します。
芸能芸術の本質は感動にある。少年の心を持たなければ、芸術はわからないといわれるゆえんである。
論理と、その積み重ねによって導き出された理論とを、万能であると信じ切り、カサカサになった心の大人たちは、みずみずしい感受性を失ってしまっているのである。
私は、五感と脳によって、喜び、感動をもたらすものを芸能芸術と呼んでいる。
必要なものは感動する能力である。
五感の中でも、芸能芸術の代表は味覚ではないか。視覚、嗅覚、舌で感じる触覚も動員されているのであろう。
それなのに、通常、味覚を芸術に入れたがらない。
なぜか。
味覚はあまりに普通過ぎて、庶民にもわかるものであるから、芸術を高尚なものにしたい人々によって排除されているのである。
芸能芸術が高尚なものに仕立て上げられたことで、困ったことが起こるのである。
感動する能力はないが、論理能力に優れ、うまい説明を思いつく人間が、俺にも高尚なものである芸能芸術がわかるとばかりに、饒舌に語りだすのである。
感動する能力はあるが、うまく説明できない人間は、芸能芸術はわからない者として排除される。
やれCDだ、ハイレゾだ、ハイエンドだ、すごいスペックじゃねえか、と言って踊りだすのは、感動する能力はないが饒舌なこの手の輩なのだ。
さて、音の世界である。
電気知識が豊富で、最新の測定器をそろえ、スペックが良ければよい音が出るとばかりに活躍する者が現れる。
音に感動することはないから、スペックの良さと音の良さの関連性を検証する能力はない。
スペックの究極を目指せば、究極の音が出るはずだと、鬼の形相で邁進する。
オシロスコープもなしにアンプを作ったって、良い音が出るはずがないと言って、感動する能力のある人間を嘲笑する。
周波数特性がこんなに伸びている、ひずみ率は0.01だ。Leakは0.1だって、話にならない、と言ってうそぶく。
こんな人間がちょっと前までいたんですよ。今でもいるかもしれない。
何しろ、周波数帯域を伸ばせば、レコードの音に拮抗できるなんて信じている人たちがいるのですから。
なぜこんな人間が跋扈するのか。
オーディオが芸能芸術分野に属するということが認識されていないからである。
ああ、いい音だなと陶然とする。それがすべてのはずだ。
なぜいい音に感じるかは、後付けの論理に過ぎない。言葉にする必要もない。
オーディオは芸能芸術に属する。判断するのは、科学ではない。
絶大な人気を誇るgarrard301なんて、旧式のリムドライブですから、スペックは良いはずがない。
出てくる音が感動を引き起こす力を持っているから人気があるのです。
オーディオは芸能芸術分野です。感動があるかないかですべてが決まります。
ならば、私の考える芸能芸術の定義が必要になる。
私は考えることは好きだが、他人の書いた芸術理論などは読んだことがないので、つまり知識がないので、独善的なものになるが、私の意図をわかっていただくには必要なものと思われるので、書いておく。
つまり、芸能芸術の客観的な定義を目指しているわけではない。
私の場合、音がいいなと思うのは感覚的なものである。あまり時間はかからない。
この感覚的というのが、芸能芸術の肝であるように思えて仕方がない。
なぜいいかと訊かれて、うーんと口ごもってしまうのである。
いいと感じたからというしかない。
音の良さを説明できないなら、音がわからないのじゃないかと言われれば、そんなことはないということはできる。現実にいいと感じたのは事実だから。
芸能芸術とは、論理的に解釈するものではなく、感覚的に、人に喜び、感動を与えるものと私は解釈している。
ならば、感覚的とはどういうものであろうか。
考えてみる。
五感というものがある。
外界の刺激に対する人間に備わった器官である。
生存のためであろう、危険を示す刺激に対して身構えるようにできている。
危険でなくとも、刺激に対して、好悪の感情を抱くように人間は作られているらしい。
例えば、好ましい刺激が五感で受け取られ、脳に運ばれ、ああ気持ちいいなと感じたりする。
すべての判断が脳だけで行われているか、あるいは脳と五感とのコラボレーションで行われるのかは、私にはわからないが、今はそれが問題ではない。
この経過は瞬時に行われ、論理の介在は皆無である。ここが大事なところだ。
どこがいいのかわからない。それでも、観るたび聴くたびに感動する。それが許されるのが、芸能芸術である。
ほかの分野では許されないのであろうが、感動があれば、すべて許されるのである。
例えば、年端もいかない少年が、到底理解できないと思える本を夢中になって読んでいる。
書いてあることを理解しているかはわからなくとも、著者の人間としてのたたずまいを常に感じ、それに導かれながら読み進め、感動していることだってある。
書くということが、最初は情報伝達の手段であったものが、読み手の心を動かし感動を与える手段でもあると分かった時、文学が生まれた。
文学は芸能芸術に属します。
芸能芸術の本質は感動にある。少年の心を持たなければ、芸術はわからないといわれるゆえんである。
論理と、その積み重ねによって導き出された理論とを、万能であると信じ切り、カサカサになった心の大人たちは、みずみずしい感受性を失ってしまっているのである。
私は、五感と脳によって、喜び、感動をもたらすものを芸能芸術と呼んでいる。
必要なものは感動する能力である。
五感の中でも、芸能芸術の代表は味覚ではないか。視覚、嗅覚、舌で感じる触覚も動員されているのであろう。
それなのに、通常、味覚を芸術に入れたがらない。
なぜか。
味覚はあまりに普通過ぎて、庶民にもわかるものであるから、芸術を高尚なものにしたい人々によって排除されているのである。
芸能芸術が高尚なものに仕立て上げられたことで、困ったことが起こるのである。
感動する能力はないが、論理能力に優れ、うまい説明を思いつく人間が、俺にも高尚なものである芸能芸術がわかるとばかりに、饒舌に語りだすのである。
感動する能力はあるが、うまく説明できない人間は、芸能芸術はわからない者として排除される。
やれCDだ、ハイレゾだ、ハイエンドだ、すごいスペックじゃねえか、と言って踊りだすのは、感動する能力はないが饒舌なこの手の輩なのだ。
さて、音の世界である。
電気知識が豊富で、最新の測定器をそろえ、スペックが良ければよい音が出るとばかりに活躍する者が現れる。
音に感動することはないから、スペックの良さと音の良さの関連性を検証する能力はない。
スペックの究極を目指せば、究極の音が出るはずだと、鬼の形相で邁進する。
オシロスコープもなしにアンプを作ったって、良い音が出るはずがないと言って、感動する能力のある人間を嘲笑する。
周波数特性がこんなに伸びている、ひずみ率は0.01だ。Leakは0.1だって、話にならない、と言ってうそぶく。
こんな人間がちょっと前までいたんですよ。今でもいるかもしれない。
何しろ、周波数帯域を伸ばせば、レコードの音に拮抗できるなんて信じている人たちがいるのですから。
なぜこんな人間が跋扈するのか。
オーディオが芸能芸術分野に属するということが認識されていないからである。
ああ、いい音だなと陶然とする。それがすべてのはずだ。
なぜいい音に感じるかは、後付けの論理に過ぎない。言葉にする必要もない。
オーディオは芸能芸術に属する。判断するのは、科学ではない。
絶大な人気を誇るgarrard301なんて、旧式のリムドライブですから、スペックは良いはずがない。
出てくる音が感動を引き起こす力を持っているから人気があるのです。
オーディオは芸能芸術分野です。感動があるかないかですべてが決まります。