2019年11月
2019年11月22日
絵画展
高校時代の友人から電話があった。
絵画展を観に行こうという。
関東ではあるが、私が住む東京ではない、ある県主催の絵画展である。
主要な絵画展といえば、東京で開催される。
わざわざ、県主催の絵画展に誘うのはどうしてかがわからなかった。
それに、絵画はよくわからないと常々言っている私を誘うのもおかしい。
もっと適任者がいるだろうにと思った。
遠出を好まない私である。通常なら断るところである。
ただ断りにくい事情があった。
友人、ここ数年精神的落ち込みが激しく、私たち友人との付き合いも遮断し、電話にさえ出ない状態が続いていた。
この頃ようやく回復し、少しづつ会う機会もとれるようになってきていた。
断って、また落ち込んでしまうのもつらいことである。
承諾した。
わざわざ車で迎えに来て、乗せていってくれるそうである。
今週の日曜午前10時前に迎えに来てくれた。
会場までは、3時間弱の行程である。すべて友人が運転した。
車中では、ずーっと話をしていた。高校時代からの付き合いである、話題が尽きることはない。
さて県の美術館に到着した。
有料ではあったけれど、友人が招待券を持っていたので、そのまま入場できた。
洋画、日本画、彫刻の部門に分かれていた。
有名画家の絵画展かと思っていたが、そうではないようだった。
洋画の展示された2階に行った。すべて友人任せである。
門外漢の私に絵画を説明してくれるのかと思ったが、そうでもなかった。
ただ観始めた。
しばらくすると、説明どころか、友人どっかに消えてしまった。
特選だとか、優賞だとかの札の貼ってあるものがある。
さらに、委員、会員、会友と書いてあるものと、何も書いてないものがあった。
私には、絵画の優劣などさっぱりわからない。
形象認識の苦手な私にとって、どうも絵画はわからない。
わからないというのは、説明できないというのとは違う。
芸能芸術の部門において、大切なものは感じることであると私は思っている。
解説を読んだり他人の意見を聞いたりすることで、理解することが本質であるとは思っていない。
その良さを言葉で説明できなければ、芸能芸術がわかっていないということにはならない。
自分でもわからないのに感動するってこともある。
感動すれば、説明など必要としない。
問題は感動する能力があるかどうかということである。
さらに言えば、芸能芸術は、知的なものというよりも、獣的なものであると思っている。
解説をとうとうとしゃべる奴に出くわし、なんだこいつわかってないのじゃないかと感じることがしばしばある。
さてと、残念ながら絵画に関して、私には感じる能力がない。
おそらく多くの絵画を観る経験を積み重ねていたなら、感じることができたかもしれない。
ただ、今回観ていて感じたことは、これらの絵を描いた人たちにとって、描くこと自体至福の時間だったのではないかということである。
その面から言えば、うまいへたなんて関係ないね。
観始めてしばらくすると、もしかしてという気分になってきた。
なんで友人が私をこの展覧会に連れてきたかについてである。
友人の絵が展示されているのではないか。
それからは、注意して作家名を見ることにした。
一つ一つ確認したはずであった。全部見終わってしまった。
ない。
絵の枚数は多く、もう一度全部を確認するのはつらい。
出品者名のリストかなんかはないのか。
一周回って、洋画展示の入り口にまた来た。
入り口左手に、なんか紙が貼ってある。
なんだ、出品者名簿だぜ。
どうだ、奴の名前はあるか。
あった。
入選していたのだ。
名簿とともに、その絵画がどの壁に貼ってあるかが番号で書かれている。
壁は長く多くの絵が貼ってあるが、全部を見直すよりはずーと楽である。
さてと。
会場案内図を見て、どの壁かを見極める。
探す。
ない。
もう一度入り口で確認する。
案内図の見方を間違えていた。基本、地図は苦手。
今度の壁は正しいはずだ。
探す。
あった。
良かった。
友人、何も言わなかったところをみると、見つけてほしかったはずである。
帰りの車の中。
「俺には絵はわからん。特選、優賞、どこがいいのかわからない。ただ、描いてるときは至福のひと時なんだろうな」
「うまく描けなくて苦しいほうが多いけどな」
「それも含めて、至福の時なんだろう」
GTKaudio
絵画展を観に行こうという。
関東ではあるが、私が住む東京ではない、ある県主催の絵画展である。
主要な絵画展といえば、東京で開催される。
わざわざ、県主催の絵画展に誘うのはどうしてかがわからなかった。
それに、絵画はよくわからないと常々言っている私を誘うのもおかしい。
もっと適任者がいるだろうにと思った。
遠出を好まない私である。通常なら断るところである。
ただ断りにくい事情があった。
友人、ここ数年精神的落ち込みが激しく、私たち友人との付き合いも遮断し、電話にさえ出ない状態が続いていた。
この頃ようやく回復し、少しづつ会う機会もとれるようになってきていた。
断って、また落ち込んでしまうのもつらいことである。
承諾した。
わざわざ車で迎えに来て、乗せていってくれるそうである。
今週の日曜午前10時前に迎えに来てくれた。
会場までは、3時間弱の行程である。すべて友人が運転した。
車中では、ずーっと話をしていた。高校時代からの付き合いである、話題が尽きることはない。
さて県の美術館に到着した。
有料ではあったけれど、友人が招待券を持っていたので、そのまま入場できた。
洋画、日本画、彫刻の部門に分かれていた。
有名画家の絵画展かと思っていたが、そうではないようだった。
洋画の展示された2階に行った。すべて友人任せである。
門外漢の私に絵画を説明してくれるのかと思ったが、そうでもなかった。
ただ観始めた。
しばらくすると、説明どころか、友人どっかに消えてしまった。
特選だとか、優賞だとかの札の貼ってあるものがある。
さらに、委員、会員、会友と書いてあるものと、何も書いてないものがあった。
私には、絵画の優劣などさっぱりわからない。
形象認識の苦手な私にとって、どうも絵画はわからない。
わからないというのは、説明できないというのとは違う。
芸能芸術の部門において、大切なものは感じることであると私は思っている。
解説を読んだり他人の意見を聞いたりすることで、理解することが本質であるとは思っていない。
その良さを言葉で説明できなければ、芸能芸術がわかっていないということにはならない。
自分でもわからないのに感動するってこともある。
感動すれば、説明など必要としない。
問題は感動する能力があるかどうかということである。
さらに言えば、芸能芸術は、知的なものというよりも、獣的なものであると思っている。
解説をとうとうとしゃべる奴に出くわし、なんだこいつわかってないのじゃないかと感じることがしばしばある。
さてと、残念ながら絵画に関して、私には感じる能力がない。
おそらく多くの絵画を観る経験を積み重ねていたなら、感じることができたかもしれない。
ただ、今回観ていて感じたことは、これらの絵を描いた人たちにとって、描くこと自体至福の時間だったのではないかということである。
その面から言えば、うまいへたなんて関係ないね。
観始めてしばらくすると、もしかしてという気分になってきた。
なんで友人が私をこの展覧会に連れてきたかについてである。
友人の絵が展示されているのではないか。
それからは、注意して作家名を見ることにした。
一つ一つ確認したはずであった。全部見終わってしまった。
ない。
絵の枚数は多く、もう一度全部を確認するのはつらい。
出品者名のリストかなんかはないのか。
一周回って、洋画展示の入り口にまた来た。
入り口左手に、なんか紙が貼ってある。
なんだ、出品者名簿だぜ。
どうだ、奴の名前はあるか。
あった。
入選していたのだ。
名簿とともに、その絵画がどの壁に貼ってあるかが番号で書かれている。
壁は長く多くの絵が貼ってあるが、全部を見直すよりはずーと楽である。
さてと。
会場案内図を見て、どの壁かを見極める。
探す。
ない。
もう一度入り口で確認する。
案内図の見方を間違えていた。基本、地図は苦手。
今度の壁は正しいはずだ。
探す。
あった。
良かった。
友人、何も言わなかったところをみると、見つけてほしかったはずである。
帰りの車の中。
「俺には絵はわからん。特選、優賞、どこがいいのかわからない。ただ、描いてるときは至福のひと時なんだろうな」
「うまく描けなくて苦しいほうが多いけどな」
「それも含めて、至福の時なんだろう」
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2019年11月14日
聞き違い
懇意のお客様が来店するとの電話があった。
その電話を切って一分もしないうちにまた電話がかかってきた。
大学時代の友人が上野の博物館に来ている、今から来るとのことである。
人が来るなんてあまりないことなのに、来るときは重なることが多い。
さきほども、高校時代の友人が立ち寄ったばかりである。
多分天気との関連が大きいのだ。久しぶりに晴れて暖かい。
友人とお客さん二人と私、HMVと私のシステムで音出しをし、様々なレコードを聴いているうちに日が傾いた。
友人が、食事に行こうと言い出した。
お客さんも一緒に行くという。
古石場の店の時は外食に行ったのだが、新しい店には台所がある。
冷凍食品をちょっと調理すれば、まあまあの食事が楽しめる。
チャーハンを作る。塩鮭を焼く。ぬか床からぬか漬けを取り出す。
お客さん、ぬか漬けがあまり漬かっていないと文句を言う。
うるせえ、ぬか床を作って1週間と経っていないのだ。
食事が終わり、お客さんに電話がかかってくる。
外で電話をしてくると、お客さん出て行く。
友人はレコードをかけて勝手に聴いている。
お客さん、なかなか帰ってこない。
そのまま帰っちゃったのか。
家で聴いて試してみると言っていたWharfedaleのトゥイターが入った袋があるから、帰ってくるつもりなのだろう。

そうだ、いい栗があった。圧力なべで蒸してやろう。
蓋をして蒸し始めたときである。友人帰る用意をして、やってきた。
「栗を蒸しているから、食っていけよ。圧力をかけて5分、火を止めて10分だ」
「そんなにかかるのか、時間よくわかったな」
そんなにかかるが気になる。圧力なべだからこんなに早いのに。
「今あれで見たんだ」パソコンを指さす。
さて出来上がった。ちょうどお客さんが帰ってきた。
友人、「なんだ栗じゃないか」
そういっただろ。
もごもごと、プリンという言葉を友人が発した。
うん?友人、聞き違えたか。
クリ プリン リしか合ってないじゃないか。
2文字と3文字だけど、プリンのンははっきりとしないから似ているといえばいえる。
ただね、俺はプリンなんてそんなしゃれたものとは縁遠いぜ。
そんなに時間がかかるのかといったのは、プリンだと思ったから発した言葉だったのだ。
おもしれえ奴だ。
三人で食べる。評判はいい。
先日食べたクリはイマイチだったけど、今回のは値段が高かったせいか、うまかった。
聞き間違いと言えば、おこわ事件があった。
同じ友人である。
40年ほど前、私が町田で塾を始めたころである。まだ30代初めであった。
小田急線の線路ぎわのアパートに住んでいた。
友人がやってきた。
昔の石油ストーブは鍋がかけられた。
「おこわにしようか」
「おお」
鍋をかけて湯を沸かしていた。
レトルトの赤飯おこわをぶち込んだ。
不審そうに、「何をしている」
「おこわを温めている」
「ココアじゃねーのか」
おこわ ココア これは似ている。
赤飯というべきだった。
しかし友人、よく聞き間違える。
おもしれえ。
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2019年11月03日
異なるコンデンサ
いつも使っているオイルコンデンサの手持ちも少なくなり、異なるオイルコンデンサをプリアンプに使ってみる気になった。
絶縁抵抗がいつものものより良くないことはわかっているが、プリアンプにならそれほど問題はないだろうと思った。
対象のプリアンプは、VarislopeⅡのモノラルプリで、作りは歴代プリアンプの中で最高級であるが、特別音がいいというわけではない。

今回使ったオイルコンは、私が通常使っているセラミックエンドに比べれば、ちょっと音がぼけるが、他のものよりはよいはずである。
0.1μF 3本と、0.05μF 1本だけを交換した。
PX4シングルパワーアンプと組み合わせて聴いてみた。
相性が良いのか、音が広がるように聴こえる。
セラミックエンドの鋭敏さはなく、ボケが良い方向に作用しているようである。
こんなこと書いたって、音はわからない。
YouTubeに載せた。

今回のレコードは、HMVのSP盤から再録し、LP盤4枚にしたGinette Neveuである。
SPからLPにしたものはひどいレコードが多い中、EMIの技術陣のすごみを感じさせるほど音が良い。
SP再生の際の針音は残っているが、この音の良さには、そんな矮小なことは気にならなくなる。
この音なら、HMV蓄音機で鳴らしたSP盤の音に対抗できる。
Chopin Nocturne No.20 Ginette Neveu PX4 Decca XMS
Sibelius Op.47 Third movement Ginette Neveu PX4 Decca XMS Tannoy Red
もう1曲。
エラ&ルイの再発盤です。
この頃の再発盤には音の良いものが多くなっている。
安く買えるのはうれしいことだ。
The Nearness Of You Ella & Louis PX4 Decca XMS
GTKaudio