2018年04月
2018年04月25日
芸能、芸術 小津安二郎、黒澤明
文学、音楽、映画、その他、芸能、芸術と呼ばれるものの全てで、作者あるいは、演者の人間性を強く感じることがある。
もちろん感動した時である。
たとえば、文章を読むとき、文意をとらえることばかりでなく、作者の人間性を感じながら、読み進めているのである。
私は、これが文学であると思っている。
芸能、芸術と呼ばれるものは、人間の魂に触れたいという、人々の欲求が作り上げたものである。
以上のことは、このブログで何度か書いてきた。
都築政昭の 「小津安二郎日記」を読む のあとがきに、黒澤明が小津安二郎を語った言葉が出ている。
引用する。
世界的な偉業を果たした巨匠黒澤明は、ダイナミックで劇的な映画を得意として、小津とはまったく作風の違った監督である。その黒澤が、晩年にはよく小津の映画をビデオで見ていた。
「この間も夜一人でレーザーディスクの小津さんの『麦秋』観ていたら、真夜中なんだけど、なんか涙が出てきてね。それは結局何にうたれたかというとね、小津さんという人なんですよ。小津さんという人物にうたれるわけね。それが全部作品化して滲み出ているでしょう。小津さんに会った時のことだとか、そういうことを思い出して、たまんなくなっちゃうわけです。すてきな人だった」(ユーモアの力・生きる力』井上ひさしとの対談『全集 黒澤明』第六巻、岩波書店)
やはり黒澤明はすごい人なんですね。
なにげない言葉の中で、芸能芸術の本質を語っている。
映画のこの場面は、こうこうこういう意味を持っているとかの頭の良い人が語る細かい解釈も大事だろうけれど、まずは感動が無ければ芸能芸術の意味はない。
その感動は、作者あるいはその作品にかかわった人々(たとえば演者)の魂に触れた時にもたらされるものと私は思っている。
芸能芸術の喜びは、人間に触れる喜びである。
2018年04月03日
モノラルカートリッジ

Decca XMS(ゲンコツ)に出会って以来、ステレオのレコードを聴くことがめっきり減ってしまった。
モノラルレコードにはまってしまったのである。
何が違うのであろうか。
音の太さ、その密度が違うのである。濃厚である。
リアルに聞こえる。
デジタルの音は、綺麗ではあるが、さらりとしていて聴いていてつまらない。
だからステレオレコードということになる。
ステレオレコードのほうが音が太く濃厚である。
それと同じことがステレオレコードとモノラルレコードにも言えるのである。
ステレオレコードよりモノラルレコードのほうが、音が太く濃厚である。
ステレオカートリッジでモノラルレコードを鳴らしても、モノラルレコードの良さはわからない。
モノラルレコードは音が悪いと思うくらいのものである。
音の良いモノラルレコードを鳴らすには、モノラル専用カートリッジが必要である。
私はXMSですが、今回4個のカートリッジを試してみた。
写真左から、Decca XMS、Fairchild 225-A、右2個は、GarrardのSP用カートリッジにモノラル用針を装着して、LPに対応させている。
今回は、Billie HolidayのLady In SatinのモノラルLPから、それぞれ曲を換えて再生した。
コロンビアのオリジナルLP 6eyeである。オリジナルではあるが、高価ではない。
まずはDecca XMS,
つぎは、Fairchild 225-A、英国製PA用昇圧トランス(5倍)を介して鳴らしている。
Garrardの78回転用の針を外して、LP用サファイヤ針に交換。もともと針は固定されていない状態で、下を向けると落ちてしまっていた。このままでは使えないので、接着剤で固定して使っている。
最後は、SP用鉄針をネジで固定するタイプの電蓄用カートリッジに、ジュークボックス用LP針を無理やり装着してモノラルレコードを再生している。4個の中でおそらくもっとも古い。
Billie Holiday But Beautiful Old Garrard Cartridge
最後の2個、ガラードの針圧など分かるはずもないので、10グラム程度の針圧で再生した。
モノラルLPの魅力、わかっていただけるでしょうか。
時代を経るにしたがって、手軽で、綺麗な音に変わっていった。
レコードでは不可避のものであった針音さえ、ステレオレコードになると極力抑えられた。
しかし、些末なことにこだわって、モノラルレコードが持っていた野太く濃厚な音もなくなっていった。
私には、針音はしても、野太く濃厚な音のほうが大切なのです。
音場がみえるよりも、音色のほうが魅力なのです。

あ、そうそう、ここで再生しているVarislope3とTL/10の嫁入り先が決まった。
特にTL/10は真空管オーディオフェア等で鳴らしたアンプである。
YouTubeに載るのもこれで最後です。