2017年06月
2017年06月16日
通常の台座と砂入り台座の比較
追加です。
Garrard RC75Aでも、同じ条件で鳴らしました。
砂入り台座です。お聴きください。
Starkerの名盤 無伴奏チェロ Opus 8をDecca XMSでお聴きになりたいとのことである。
GTKaudioでは、お送りする前に、YouTubeにアップしてどのように鳴るかをなるべく確認していただくようにしている。
遠くのお客様の時、YouTubeは大変便利である。
今回もアップした。
1階から3階へ引っ越し中だから、狭いところでしかできない。
近くにある機器をかき集めて、鳴らした。
スピーカーが一番大変なので、Audiom50を裸で鳴らしている。
ことはついでだ、通常の台座とサンドフィルドの台座を比較してみることにした。
1950年代の英国製の台座は、薄い合板(たぶんフィンランドバーチ)がほとんどである。
Garrard RC72A用の台座を12㎜厚のフィンランドバーチで、家具の職人さんに作ってもらった。
それより以前に、砂入り台座も同じ職人さんに作ってもらっていた。
さて比較してみる。YouTubeにアップした。
まずは通常の台座。
続いて、砂入り台座。
私は、砂入り台座のほうが好きですが、どうでしょう。
私が最もいやだなと思う台座は積層です。
見た目の安心感だけで、決して音はよくない。重たいし。
音で判断するのではなく、見た目優先の現代のオーディオを象徴しています。
そういえば、重たければ音がいいというばかげた迷信が、かつて日本のオーディオにありましたね。
テストのための映像は、こんなのもあります。砂入りの台座です。最初間違って、通常台座と書いてしまいました。すみません。
Thorens TD/124は砂入り台座でなくては、このような明確な音は出ません。
GTKaudioの音の良さは、Leakアンプのオーバーホールの方法が主要因だと思っておりますが、今回比較してみて、砂入りのターンテーブルもかなり寄与していますね。
思いつきで様々な工夫をしてまいりましたが、ほとんどは音の良さには結びつかないものです。
そんなときは、どんなに苦労した方法でも、その方法は捨てています。
良さそうな方法でも、結果としての音に結びつかなければ、意味がありません。
結果としての音を聴いて、そのような方法を捨て去ることの出来る能力が、必要です。
結果としての音を良くする方法だけを残すことで、システムとしての音の良さを増進できます。
他人の評価に耳を傾ける必要は全くありません。音は自分を表すものです。
YouTubeで私の音を聴いて、つまらないと思うなら、他人が何と言おうと、捨てればいいのです。
もちろん私は、あなたのことを音のわからない人だと思いますよ。
だけどそんなことは構うことではないでしょう。音はあくまで自分を表現するものだからです。
オーディオは、楽器を作るように、自分の耳を信じて、トライアンドエラーで結果としての音を良くして行くしかありません。
立派な理論に基づいて作られた楽器だから音がいいはずだといわれても、音がよくなければだれも買いません。
オーディオの場合、これがまかり通るのだから不思議です。
評論家と呼ばれる存在が、人を迷わせているのが主因でしょう。
筆が立てば、どうにでも人をコントロールできると思っているどうしようもない存在です。
文学的才能をそんなものに使って恥ずかしくないのかね。
CDプレイヤーの発売当時の売りは、すべての面でLPを凌駕する性能だったはずです。
トランジスタアンプやCDでえらく痛い思いをしたオーディオマニアが、SACDだハイレゾだといわれて飛びつく気にはなれないでしょう。
それを推奨した雑誌を買う気にもなれないでしょう。
CDが出た当時は、レコードプレーヤーは消え去るものと思われていたのです。
先日、30代の若い人にCDのほうが音がいいと思われていたのですよとお話したら、「ええーー、本当ですか」と驚かれていました。
ずいぶん変わったものです。
音という芸能芸術分野に属するものを、電気の知識や測定器ですべて解決できると考えるのが間違っています。
結果として出てくる音が、良いか悪いか決める能力があるかないかが、オーディオにかかわるものの全てです。
自分のシステムです。決断は自分でするのです。
そうでなければ、あっちに行ったり、こっちに行ったりで、自分の音など見つけられません。
買い換え、買い替えで一生を終わることになる。
オーディオの博物館を作るつもりなら別ですが。
2017年06月07日
森鴎外
朝方、布団に入って寝入るまで本を読む。
電子書籍の青空文庫なら、古い作品はただで読めるから、このごろはもっぱらこれである。
大きな文字にできるのも老人には助かる。
森鴎外を読んでいる。難しい漢字にはルビがふってあるのを頼りに読んでいる。
「雁」や「青年」は若いころに読んだと思っていたから、最初は時代ものを読んだ。
想像していたものとは、まったく違っていて驚いたことが多い。
まず、「百物語」は幽霊の話だと思っていたが、幽霊は話のつまで、他人の心理を洞察する小説だった。
「渋江抽斎」は、はじめのうち長々と家系をたどる文が続き、これなによという感じがしていた。ただ、読むのをやめる気にはならなかったのは鴎外の筆力なのかもしれない。後半になると話が展開し始め、飽きなかった。
何なのですかね、今まで読んでいた小説は、やがて半覚半睡の時期がやってきて、寝入っていた。鴎外の小説は、なかなか寝入ることができずに目がさえてしまう。寝不足になるのが困る。
鴎外の持っている精神の緊張がこちらに乗り移るからかもしれない。
ちょっと残念なのは、私に漢詩を理解する能力がないことである。
鴎外は、誰でもわかるだろうと、漢詩を引用する。
書き下しのルビがふってあるから、読んでこれくらいの意味だろうと推測することはできる。悲しいことに、味わうほどの能力は私にはない。
明治以前、漢文の素養など持っている人はざらにいて、漢文が、文学の一部をなしていたのであろう。それが私の中では抜けている。自らの怠慢であるが、残念である。
時代物の主要なものを読んでしまったので、若いころに読んだ「雁」を、また読む気になった。
驚いた。
読んだ気になっていただけで、読んでいなかったのである。
あらすじがわかっていたから、読んだ気になっていたのだ。
こんなことは初めてである。
恋愛小説だと思っていたのが、心理小説だった。
「青年」も読んでいなかった。これも心理小説だった。
自分の馬鹿さ加減にあきれた。
それにしても、鴎外が人の心理にこだわる人間であったことには驚いてしまった。
私が若いころ、他人の心の動きを読むことができる能力は、自分の弱さを表すものとしか思っていなかった。
強い人たちは、自らの思いをストレートに表明し、それでいて他人に好かれる能力を持っている。
論理能力よりもその人の醸し出す雰囲気といったものの力が大きい。
すじなど通っていなくてもよいのである。
特に小さな子供の時代に、この傾向は顕著である。
私のような弱い人間は、子供の頃、小さな社会の中で、自分の思いをストレートに表明したら、つまはじきになることを感じていた。その小さな社会との折り合いが悪いのである。
容姿、声、態度、自分の醸し出す雰囲気が、その小さな社会からはじき出されるのである。
さてどうするか。
相手の心の動きを読まなくてはならないのである。
相手の心の動きに合わせて、自らの行動を律するか否かは、またその人の心の強さによる。
私は弱い人間だから、自らの行動を律するほうを選んだ。
品行方正に律するわけではない。崩しも入れなければならない。
その小さな世界との折り合いはついた。
いつも本当の自分ではないつらさが付きまとっていたけれど。
まあ、私は、弱い人間なのだ。
年を取るにしたがって、人は素(す)の自分のほかに、自らを守る鎧を着るようになる。
その鎧とは、頭の良さであったり、獲得した地位であったりする。さらに、相手の心を読む能力さえもその鎧の一つになる。
森鴎外、十分すぎる鎧を持っていた。
その鎧の下には、傷つきやすい肌が隠れていたのかもしれない。
どんなに鎧はあっても、文学から離れることはなかった。
文学から離れられないなんて、ぬめっとした弱さを感じませんか。
墓には、森林太郎とだけ書くように遺言した人です。
死んだら鎧は必要なかった。
文学は弱い人間のためにあるのです。
誰かが書いていた。
「文学においては、王様も乞食も同じ価値である」