2016年10月

2016年10月22日

Starker Kodaly

追加です。

StarkerとKodalyのオリジナルレコードがほしくなり、米国から購入いたしました。

ただ、無伴奏ではなく、ピアノやバイオリンの伴奏の付くものでした。

私が購入するのは安物ですから、だいぶ使い込まれていて、針音がかなりひどいです。

無視して聴いてください。




2016真空管オーディオフェアが終わり、一週間ほどして、お客様が来店された。

オーディオフェア以前にも、一度来店され、Shure V15 Type3の交換針を購入していただいたお客様だった。

その時は、お持ちのレコードを何枚か持参されていた。モノラルレコードだった。

試聴してみた。


音の良し悪しは、一瞬で決まる。

何だこれは。息をのむ。

今まで聴いた最高の音である。

こんな録音があるのか。


私はレコードの知識がない。

一山いくらで購入したレコードの中から、気に入った音のものをYouTubeに載せている。

Starker Kodalyだそうである。

後でお客様に教えてもらった。録音の良さで有名なレコードらしい。

ただし、オリジナルは米国製だそうである。お客様の持ってこられたレコードは英国製だった。

私にとって、そんなことはどうでもよい。聴いた音がすべてである。


弓で弦をひと引きする。そのひと引きの中で、微妙に音の陰影が変化する。

お客様の目の前で録画した。

すぐに再生してみる。

残念なことに、私のPowerShot SX150 ISで撮った音では、その微妙な変化がなくなってしまう。

けれども片鱗は伝えてくれるであろう。

YouTubeです。



さて、お客様の反応である。

私がこのレコードに感動していた時、お客様は違った見方をされていた。

お客様がご自分の装置で聴かれた時、音の良いレコードだとは思われたそうである。

ただ、こんな音では鳴らなかったとおっしゃる。


お客様の分析である。

砂入り台座や、砂入りスピーカーは、音の響きを取捨選択している。


そう、私と同じ意見である。

私が砂入り台座の作り方をこのブログに書いた時、コメントをいただいた方々の意見は、振動を抑制することで、良い音が出るというものであった。

私には違和感があった。振動を抑制しようと思ったことなどなかったのである。

私が考えていたのは、砂入りのスピーカーが、良い響きの音で鳴ったから、ターンテーブルも同様の効果があるのではないかと考え、作っただけのことである。

振動の抑制など、理論的なことは全く考えていなかった。

というより、防振を目指して作ってみて、つまらない音になってしまった経験が何度もあるのだ。

私にとって、結果としての音がよければ、どんな方法でも良いのである。

論理的に考えるのはそのあとである。

最新の理論にのっとって作られたシステムが、つまらない音しか出せないなんてことは、いくらでもあることなのです。

なぜか。

音は芸能芸術の世界である。感じるものである。

論理、理論にとって最も苦手な世界である。


今までにないものを作り出す創造者にとって、理論ほど、手かせ足かせになるものはない。

すべては結果としての音である。

小津安二郎の言葉を借りるなら、

映画に文法はない。

である。

歴史は、残酷である。

東大京大などの一流大学を出た理論武装ばっちりの俊英、一時期ニューベルバーグともてはやされた監督たち。

小津安二郎と対立があった。彼らは、古臭いホームドラマを作るだけの巨匠と、小津安二郎を見下していたはずである。

今や、自らの感覚のみに頼って映画を作り続けた小津安二郎に比肩する者はいない。

芸能芸術の世界では、理論、論理は重要ではない。結果として現れる作品だけが重要である。


言い換えよう。

音に文法はない。





gtkaudio at 22:51|PermalinkComments(0)オーディオ 

2016年10月12日

第22回 真空管オーディオフェアを終えて


GTKaudio1 ShimomuraでGTKaudioの音をお聴きください

現在100曲を超える動画を載せております。

私にとって年に一度の大イベント、真空管オーディオフェアを終えて、茫然としている。

昨日は何も手につかなかった。

今、店の真ん中に座り見回してみても、すべてのものが散らかり、雑然としている。

運び込んだ荷物を開け、音が出るように設置し、整理しなければならない。

この整理ってやつが、私の最も苦手とするところである。

「俺に(男に)セイリはない」と豪語してはみたものの、哀しいだけであった。


さて今年のオーディオフェア、大盛況だった。

去年までは、4時ごろになると、訪れる人も少なくなり、残った人たちとゆっくり話ができたのですが、今年は、朝から終わりまで人が途切れることがなかった。

最終日、5時半少し前に、「時間ですので、今回はこれで終わらせていただきます」と挨拶までした。

こんなことは初めてだった。

友人は、「年ごとにすごいことになっているな」と、喜んでくれていた。



遠くからいらした方から、「GTKオーディオの音を聴きたくて来たのです」とお話し下さる方もいて、感動しました。

GTKオーディオの試聴にいらしていただいた皆様に御礼申し上げます。


さてと、

これから機材の設置と、苦手な整理を始めます。



gtkaudio at 18:13|PermalinkComments(0)オーディオ 

2016年10月06日

第22回 真空管オーディオフェア その2

YouTubeでGTKaudioの音をお聴きください

追伸。

9日は、大学時代の友人もチラシをまいてくれることになった。

彼のことは最初の頃のブログに書いてある。


私のブログ、友人列伝の書庫には、この種の話が書いてあります。



今年の真空管オーディオフェアでも、友人がチラシをまいてくれる。

去年は二人がまいてくれたが、如才ないほうの体調が思わしくなく、チラシを作ってくれた職人気質一人だけでまくとのことである。

私の高校時代の友人である。

ありがたいことである。

どうか受け取ってあげてください。


職人気質の友人のことを紹介しておく。

私と同窓である。私は69才だけれども、彼は早生まれだから、現在68歳。

お兄さんと看板の会社を経営している。

確実丁寧な仕事をするから、会社も安定している。

今は、パソコンに向かってのデザインの仕事が主である。

私のような半分趣味のような仕事とは違い、現役バリバリである。

この年でよくできるなと思うほどの仕事をこなしている。


彼のことを語るなら、引っ越しについて語らなくてはならない。

今は引っ越しといえば業者に頼むのが普通だが、かつてはそんなことはしなかった。

車を持っている人を探すのである。

私の場合は、彼だった。

今から思えば自分の馬鹿さ加減にあきれるが、金を払うという感覚がなかったのである。

車を用意し、ガソリンを使い、主体的に指図し、自らも運ぶ作業をする。

それをただでやってもらうのである。


私はなんとも思っていなかった。当然だと思っていたのである。

私だけではない。

彼はそのような引っ越しを100回以上やってきたのである。

心ある人は、お金を渡そうとするが、受け取ろうとはしない。

仕事以外のこんなことで、金なんて要らないよという感覚だったのだろうか。

時代というものかもしれない。下町ということか。

いや、彼の特性に甘えていたのである。



数回、「奴の引っ越しがあるから、手伝ってくれ」と彼から言われ、助っ人として参加したことはある。

しかし、彼がやってきたものに比べれば、微々たるものである。

もちろんそれを手伝って、金がもらえると思ったことはない。



チラシを作って真空管オーディオフェア当日まいてくれる職人気質の友人は、そういう男です。

奴が号令をかけると、みんなが集まってくる。


彼が作ったチラシを再度載せます。

イメージ 1

イメージ 2





gtkaudio at 16:32|PermalinkComments(0)オーディオ 

2016年10月02日

母語と母音


母語(ぼご)と母音(ぼおん)と読んでほしい。

母音(ぼいん)と読んで、大きなおっぱいを想像する人はないと思う。

冗談はともかく、今は、あ、い、う、え、おについて語ろうとしているのではない。

音について語ろうとしているのである。


さてと、

私が塾をやっていたころ、mother tongueを母語と訳しているのを見て、驚いた。

私の感覚では、mother tongueもmother languageも、母国語と訳を付けてしまう。

というより、私の中に、母語という日本語はなかったのである。

刺激的な言葉であった。



私は調べる性質(たち)ではない。

考える性質(たち)である。

違いを次のように解釈した。



たとえば、生まれたばかりの日本人の赤ん坊がいる。

何らかの事情で、アメリカ人の家庭に預けられ、10歳までその家庭の中で成長したとする。

その子の母語は英語であり、母国語は日本語である。



言葉は大切である。

その地域の文化を、遺伝子のように伝えていくものである。

論理的にではなく、感覚的に伝えるのである。

英語圏で育てば、英語圏の文化を継承することになる。

それが、その子にとって、良いことか悪いことかはわからない。

まさにその子次第であろう。



さて本題に入ろう。

母音(ぼおん)についてである。私の造語であることはお許しを。

音にも、母語と同じようなことがあるのではないかと思っている。

私の育った環境は、貧乏人が体を寄せ合って暮らす下町でした。

流れてくる音は、歌謡曲であり、浪花節でありました。

ラジオから流れてくる音楽も、歌謡曲一辺倒でした。父母の好みだったのです。

私の母音(ぼおん)は、そのようなものでした。

私が、山の手の上流階級で育っていたなら、母音はクラシック音楽で育まれていたかもしれません。



ご存知のように、日本人の音の好みは、モンゴルのホーミーの影響を受けているといわれています。

日本語の起源と同じです。

浪花節や仏教の読経などを聞くと、まあ納得できます。

民謡を聞き、演歌のコブシなどからもわかります。



上流階級、知的階級の人たちの多くは、私の母音(ぼおん)を馬鹿にする傾向があります。

ネットにも出ておりましたが、私が美空ひばりをかけているのを聞き、オーディオをやる人間にあるまじき行為と思ったらしく、書き込みをしているのを見たことがあります。

ほかの人が、そういうのもありだよと書いてくださっていたのを見て、わかる人もいるのだと安心しました。



クラシックはたかだか明治以降、ジャズはもっと短い、長く継承して洗練されてきた音を、俗だといってそんなに簡単にバカにしていいもんですかね。

私としては、日本の音をいい音で鳴らして、YouTubeで流したいのですが、50年以上前のレコードを再生しても、著作権に触れるとのことで、2回削除され、3回目には私の出している曲全部が削除されてしまうので、日本の曲は載せることができなくなっています。

3回削除されると全曲が削除されるという制度は、日本だけであるらしい。

海外では、そんな制度は無いようです。削除される制度自体がない。

日本人はこれぐらいやっても文句は言わないだろうと馬鹿にしているんですかね。

50年以上前のレコードなら、掲載OKぐらいの制度を作れないものか。



オーディオマニアが、歌謡曲を聴いたって、何ら恥じることはないのです。

私は、日本人の曲で、音の調整をすることもあります。

私の母音(ぼおん)は、俗な日本の曲ですから。

音は感覚で勝負するものです。

その感覚には、母音(ぼおん)もかかわっているはずです。

オーディオマニアなら、ジャズかクラシックでなければダメなどというバカげた考えは捨てましょう。





gtkaudio at 19:30|PermalinkComments(0)オーディオ