2016年08月
2016年08月22日
ベアリング
つれづれ、bearing(ベアリング)という言葉を考えている。
ターンテーブルに関する英文を読んでいて、どうも私が持っているベアリングという言葉から連想されるイメージと違っていることが、きっかけだった。
私のイメージは、ベアリングといえば鋼鉄のボールの付いたボールベアリングである。
というか、こちとら馬鹿だから、鋼鉄のボールがベアリングだと思っていた。
英文では、ベアリングはもっと広範囲のものを指しているように感じる。
英文からイメージされるベアリングは次のようなものである。
穴があって、鉄の棒が通っている。鉄の棒は回転できる。
これ、ベアリングのようだ。
鉄の棒があって、先がとんがっている。その先が逆円錐をしたみぞに乗っている。鉄の棒は回転できる。
これもベアリングのようだ。
いにしえの牛車(ぎっしゃ)の木製の車軸と、それを支えるこれまた木製の円形をした穴さえも、ベアリングといえそうである。
このようなことがあると、つれづれボーっと考えることになる。
bearingをbearとringに分ける。
リングはすぐわかる。輪っかのことだろう。
bearですぐ思いつくのは、熊である。
首輪をつけられた熊がいる。首輪についたロープの末端は、木にくくりつけられている。
熊はロープの届く範囲で、歩き回ることができる。首輪は確かに、ベアリングと似たような働きをしている。
しかし、bearである必然はない。catringでもdogringでもいいじゃないか。
次、bearを動詞としてとらえる。私の頭からは、耐えるという意味しか出てこない。
耐える輪っか。いいんじゃない。
車輪が回る。連動して、車軸が回る。車体に固定された穴は、摩擦熱に耐え、少しづつ削られながらも、車軸の回転に一所懸命耐えている。
人の目を引くのは、車輪である。しかし、車輪の華やかなパフォーマンスを可能にしているのは、まさに耐える輪っか、ベアリングである。
いいねえ、まさに耐えちょるぞ。こういうやつら大好きだ。
解決したかに見えるが、ホントかよ、という気分も残る。
そこで、ネットの辞書を引いてみる。
なーんだ。bearは支えるって意味があるんじゃない。
支える輪っか、これだね。
私の妄想はここで終わる。
私はここで満足した。ほかの人が満足したかは関知しない。
蛇足ですが、bearには「生む」という代表的な意味があるんじゃないかという意見もあると思います。
ただこれはあえて書かなかったのです。
私のような下司(げす)は、卑猥に走ってしまいます。
「生む輪っか」ですぜ。
観音様ーーー。
ほら。
書かなきゃいいのに、下司は書きたくなっちゃうんだよな。
下賤の育ちはこれだから困る。
まさしく蛇足です。
2016年08月06日
ロシアからのメール
先ほど、私のYouTubeに、同じ外国人から私の音への称賛と、使っている装置を問い合わせるコメントが多数寄せられた。
私のYouTubeを見る人は、もちろん日本人が多い。
しかしながら、音をほめてくれる日本人はほとんどいない。
まあ、気持ちは分かる。日本で評価されるのは、私が死んでからのはずである。
今のところ、音に対する称賛は外国人がほとんどである。
多数のコメントをくれたのはロシア人だった。
一つ一つに返事を書いた。
最後に、メールアドレスを教えてほしいとのことであった。
しっかりとした英文を書く人だったので、教えた。
モスクワでHigh-End Clubを主宰し、店を経営しているという。
ハイエンドクラブに引っかかる。
私はハイエンドオーディオという言葉自体が嫌いなのである。
売り手がハイエンドなどと言って、売ってよいものだろうか。
値段がハイエンドというのはよくわかる。成金趣味をくすぐるわ。
音がハイエンドといえば、これ以上ないという意味になる。
ほんとかよ。
ハイエンドオーディオという言葉をつくりだした人は、よほど恥ずかしさを感じない人である。
買い手がいるのだから、まあいいのかもしれない。
先日も、かつてハイエンドの装置で聴かれていたお客様がいらして、私のLeakをお買い上げになられた。
その時の会話である。
「ハイエンドですか」と私。
「ハイエンドをやっている人は音が分からないと思っているんでしょう」
ウ、お客様を目の前にしては言いにくいけれど事実なので、「まあ、そうです」
おそらく私のLeakなど、ハイエンドオーディオから見れば、安物である。
さて、あのロシア人から早速メールが届いた。
うーん、困った。
スカイプを利用して話をしたいというのである。
わしゃ、自慢じゃないけど英語は話せないのだ。
さてと、英語の読み書きはできるけど、話すことはできないこの逆転した状況を、外国の人たちに納得させることは難しいというものである。
日本は海に囲まれた島国であり、それゆえ外国人との接触がほとんどなかったこと、さらに日本の新知識獲得方法の歴史を書かなければならない。
まあ、しょうがない、かいつまんで書いた。
納得はできないだろうな。
良いのだ、何かあればメールで事足りる。
それに、わたしゃ自分の声がどうにも嫌いなのである。
自分の顔も許せないが、それ以上に声が許せない。
私のオーディオ的感性が拒絶するのである。
他人(ひと)さまに聴かせる声ではない。