2015年08月
2015年08月28日
感じるということ、あるいは芸術について
ある小説家が書いていた。
手元にその文章はないから、記憶で書く。
散歩をしている。
さわやかな風が吹いてくる。
「ああ、この風、心地いいな」
さわやかな風を、心地いいなと感じる心が、文学である。
この感じを持てない人が多くなっているように思える。
もっと文章は良いが、大意はこんなものである。
何が言いたいか。
文学とは第一に、感じるものであると、この文学者は言いたいのである。
文学を、より敷衍して、芸術といってもよいと私は思う。
芸術とは、感じるものである。
感動を説明する必要などないのである。
説明の前に感動が存在するのであるから。
私が小津安二郎の東京物語を、銀座の並木座で観て、感動したのは、26歳の時だった。
どこがよいのかなど、説明できるはずがないけれど、涙が出てきた。
品位の高い日本文学の世界であると感じた。
次に思ったのは、こんな微妙な世界、外国の人たちには理解できないだろうな、であった。
あまりに日本的な映画であったのだ。
ところが違っていた。
世界の映画人が、小津安二郎を絶賛していることを知り、驚いてしまった。
おそらく、私が日本的と思っていたことが、より普遍的なものであったのであろう。
わかるんだ。
いや、わかるわからないなど、関係ないのである。
まず第一に、感じるのである。
実際、頻繁にあったそうですが、東京物語を観た外国の若者が、泣きはらした目をして映画館を出てくるのだそうである。
まさに、感じているのである。
何でそんなに感動しているのだと訊かれて、すぐに論理的に答えられる人は少ないものである。
言葉にできない、論理化できないといって、感動できないものが感動しているものを辱めることは、馬鹿げている。
論理よりも先に感動はやってくるのである。
論理化できなくてもいいのである。
論理化できなくても、わかっていないとは言えないのである。
自身は感動できないのに、細かな点を指摘して、解説している人間はたくさんいる。
もちろん評価の定まった作品に対してである。
感動はないけど、論理に強い人たちである。尻馬に乗っているのである。
論理的に説明できれば、芸術がわかった気になっているのである。
そのような人たちが、芸術を高尚なものに祭り上げている。
小津安二郎は言っている。
「俺は河原で袖を引く夜鷹だ」
芸術なんて、河原乞食がやるもので結構だ。
そういう覚悟がなくてはね。
目線は下からである。
高尚なものでは決してない。
私は、芸術を感じるところは、脳の中でも、より原始的な部分であると思っている。
官能を刺激されるのはそのせいではないのか。
芸術は、感じるものである。
論理ではない。
何度も引用しているが、文学者の言葉を引用する。
「文学は、人間や、人間が作っている世間への理屈を超えた情趣や、あるいは論理でもって表しがたいなにごとかを言語で書くもの」
文学を芸術と言い換えてもよい。
「芸術は、人間や、人間が作っている世間への理屈を超えた情趣や、あるいは論理でもって表しがたいなにごとかを表現するもの」
である。
芸術は論理化するものではなく、感じるものです。
理屈を超えた情趣であり、論理でもって表しがたいなにごとかであるのだ。
そこにこそ、芸術の存在基盤がある。
2015年08月21日
振り回す人間、振り回される人間
どうも人間には、振り回す人間と、振り回される人間の2種類があるらしい。
私は、完全に振り回される人間である。
この夏こんなことがあった。
高校時代の友人から、いつもの3人で沖縄に行こうと誘われた。
私は動くことが苦手である。
せっかくの誘いだったが、今回はやめておくと断った。
誘ってくれた友人も、納得しているはずだった。
なんか変なのである。
出発の日が近づくと、その友人から、沖縄旅行の予定を知らせてくるようになった。
どうも私も行くことになっているようなのである。
不安になって訊いてみた。
「ところで俺は行くのかい」
友人、ツラーとして、こたえた。
「行くよー」
うーん、そうか俺も行くのか。
行ってきた。
有意義な旅行だった。
浜松在住、大学時代の友人から電話があり、3人で伊豆の別荘に行こうと誘いがあった。
私は動くことが苦手である。
もう一人の友人は、カナダ在住の娘に子供が生まれて、いろいろ忙しそうだから、駄目だと思うと話しておいた。
電話をして、明日結果を知らせるとのことだった。
次の日、店に来る時間になっても電話がなかった。
不調だったのかと、もう一人の友人に電話をしてみた。
電話があった時、奥さんの実家から帰る新幹線の車中で、出られなかったとのことだった。
昨日帰ってきて疲れているだろうから、今回の伊豆行はなさそうだ。
安心して、誘ってくれた友人に伝えた。
電話をしてみるという。
店でゆっくりしていると、電話が鳴った。
誘ってくれた友人からだった。
「これから出発する」
「えー、今日はお客さんが来店することになっているんだ」
「10時以降なら大丈夫だろう」
「なにも用意していない。サンダル履きだぜ」
「何もなくていい、用意は俺がしてある」
浜松を出発して、東京の聖跡桜ヶ丘で友人を乗せ、江東区古石場の私を拾い、伊豆に向かうというのだ。
異常な奴だ。
もう一人だってそうだ。
昨日石巻から帰ってきて、今日伊豆に行くというのか。
この二人、私が危惧していた「動いたっきり老人」になってしまっている。
ただ一人正常な私は、振り回されるのである。
結局、伊豆に行ってきた。
面白かったけど。
浜松の友人がのたまわった。
「どこかに行こうと思いつくと、ワクワクするんだ」
うん、やはり異常だ。
お願いだ,ワクワクしないでくれ。
人間には、振り回す人間と、振り回される人間の2種類が存在する。
私は、振り回される人間である。
2015年08月01日
音について
私の場合、音の良し悪しは、聴き始めて数秒で決まる。
なんら特殊な能力ではない。
私の店の懇意のお客様は、ほとんどがそういう方たちである。
そういう方たちしか、私の音を気に入ってくださらないともいえる。
だから話が早い。
理論と論理を駆使して、音を語る人たち、それでいて大した音も出せない人たちが多すぎる。
音の良さを科学的に説明してほしいという。
音の良さに理由が必要なんですか。
音を聴けば、すぐにわかることなのに。
感じればよいだけである。
私は、音は芸術であると思っている。
ただ、この芸術の「術」が曲者である。
まるで、素晴らしい芸術作品を創り出す術(すべ)があるかのように感じさせる。
すべがあろうはずがない。
芸術は個々の人間の表出なのだから。
いやな言葉だけれど、芸術の前に、「高尚な」という修飾語が付く。
私は、芸術は官能を刺激するもの、ととらえている。
その喜びは、性的な喜びに似ている。
性的喜びに、「高尚な」という表現はふさわしくないと思う。
高尚なセックスなど、勘弁してほしい。
かつて、岡本太郎がテレビに登場し、目をひん剥いて、「芸術は爆発だ」と叫んでいるのを見た。
私は美術的能力が全くない。
だから、この人は異常な人か奇を衒う人かのどちらかであろうと思った。
今は何が言いたかったのかが分かる気がする。
人間の中から出てくる爆発なのである。
芸術は、理路整然と出来上がるものではない。
その人の感覚にかかっているのだ。
小津安二郎の言葉を借りるなら、
「文法はない」のである。