2014年03月
2014年03月18日
文章について
学生の頃、ある文学者が書いている不思議な文章を読んだ。
<文章を読むということは、その内容にかかわらず、それを書いている人間を読むことに他ならない。たとえそれが論文であっても、人間を読むことに変わりは無い。>
そのような内容であった。
原文が今はないので、思い出しながら書いている。もちろんもっと力強い文章であった。
若く馬鹿な私は、これがさっぱり分からなかったのである。
冷徹な論理の構築であるべき論文が、このようなものであるとはどうしても思えなかった。
今思うに、この文学者の言いたかったことは、
「文学を芸術たらしめる所以(ゆえん)は、それを書いた者の人間性が、いかなる文であっても、もうどうしようもなく現れてしまう、ということにある」
ということだったのである。
「文は人なり」という。
情報伝達とその保存から始まったであろう文章が、その当初の役割だけでなく、大きな副産物を作り出したのである。
その副産物とは、文章が、それを書いた人を髣髴とさせる力を持っていることに人が気づいたことである。
ここから文学が始まる。当初から文学は芸術であったのである。
おそらく、人間は人間が大好きなのだ。
珠玉のような人間の魂にふれるとき、人はひそやかに歓喜し、ときとして官能的な喜びをさえ感じるのである。
ここにこそ芸術が存在する。
その媒体が論文であっても、一向に構わないのである。
芸術とは、
「人が作り出したものから、その人の魂がにおい立つ香気を感じる喜び」
をもたらすものと定義したい。