2013年07月
2013年07月29日
抗がん剤
友人が、抗がん剤を飲むことを止めてしまった。
周りの人間にとってもちろんショックである。
はじめは、もっとがんばれないのかなとも思った。
ただ、抗がん剤というもの、素人がこの語感から感じるものとは、かなり隔たりがあるもののようである。
肉体的にも、精神的にも、かなりの苦痛を伴うものらしい。
副作用が激しいのだ。本人にしか分からない苦しみである。
周りの人間がとやかく言えるレベルではない。
その苦痛に耐えて、飲み続けたからといってがんが必ず治るという保障はないとのことである。
そのせいだろうか、医者も抗がん剤を強制することは無くなってきている。
我々友人は、彼の判断を受け入れるしかないのだ。
彼のブログです。
2013年07月18日
2013真空管オーディオフェア 部屋割り抽選
第19回真空管オーディオフェアの部屋割り抽選会が今日行われた。
去年私が使ったS1とそれと同等の大きさのS2の人気が高く、ともに何社も競合していた。
今年はS1をパスして、Aを狙った。
Aタイプは3部屋あり、2社しか希望がなかったので、少なくともどこかには入れる。
抽選で一番目に選ぶことができた。
去年GTKオーディオが入ったS1の向かいの部屋504である。
去年の倍以上の広さがある。
2社で入れれば、S1と値段はほとんど変わらないと高をくくっていたら、単独になってしまった。
1社が声をかけてくださり、検討されるとのこと、決定してくだされば楽である。
まあ、単独でもいい。
GTKaudioはほかにまったく宣伝をしていない。
1年に1度の贅沢である。
オーディオ屋なんてものは、よい音を出すことに専念すればいいと思っている。
YouTubeでGTKaudioの音を聴いてもらえれば、どんな音かはある程度わかるけれど、実際はもっといいに決まっている。
実際の音を聴いてもらえる絶好の機会である。
よし、勝負だ。
追伸、
今年の目玉は、なんと言ってもWharfedale Sand Filled Speakerのレプリカです。
レプリカはオリジナルより劣るのが普通ですが、このレプリカオリジナルよりいいのです。
よく目かもしれませんが、聴かれた懇意のお客様がたの反応からすると、どうもよく目だけではないようです。
Wharfedaleは、下手な箱に入れると高音がうるさく感じるものですが、それはまったくありません。
このことはオリジナルでも同じなのですが、オリジナル以上に音が明確です。
ベルハウエルの英国製の箱でGoodmansを聴いたとき、こんな小さな箱で、よく十分な音が出るもんだと驚きました。
これは木からして違うのではないか、日本で作っても無理な話ではと、箱作りは半分あきらめていました。
ただどうしても砂入りのスピーカーの魅力に勝てず、駄目もとで作ってもらったのです。
構造が複雑ですから、作ってもらうのも高いものにつきます。
ステレオはやめて、モノラルにしました。
出来上がる頃になって、自信をなくし、頼んだ方に、駄目だったらもう一度だけほかの木でやってみようかと、ひどいことも言ってしまったのです。
一所懸命作っていてくださる方に、失礼だったなと、後悔しました。
出来上がった箱にスピーカーをセットし、音を出した瞬間に、これはいいと思いました。
私は、聴いてすぐ音はわかるのです。
細かいことはわかりません。
エージングによる違いさえ、あまりわからないほうです。
細かな違いを聴き分ける能力がないのです。
ただ全体から感じる音の良し悪しは、速攻で分かります。
音の太さ、たっぷりとした情趣、肌理(きめ)細やかな音のなり方。
すべて私が聴いた最高の音です。
この音を、真空管オーディオフェアで聴いていただきます。
あとは部屋との相性だけです。
オーディオフェアでこの相性に負けて私が泣いているか、勝ってニコニコしているか、来てみれば分かります。
2013年07月08日
東京電力 原発再稼動
沖縄旅行から帰ってきました。
福島のこと書こうと思っていましたが、別のことが気になりましたので、後日にします。
東京電力が柏崎刈場原発再稼動のための安全審査を申請すると宣言した意味を考えている。
再稼動推進派の人たちから、東京電力は捨石になることを要求されたのではないか。
耳目をすべて東電に集めれば、他の電力会社の安全審査申請の衝撃を和らげることができると踏んだのではないか。
実際他の電力会社に対する反発は、東電に対する反発の陰に隠れてしまった。
再稼動推進派の人たち、それくらいは考えますよね。
どれかひとつでも再稼動できれば、後はいくらでも風穴は開けられると考えているはずですから。
2013年07月04日
2013年07月03日
福島行き 2
常磐自動車道は、広野インターで行き止まりになっていた。
降りる。
富岡駅を目指して、車を走らせる。
運転はMである。。
田畑と点在する民家の続く平野を走っていた。
人はいない。
人の手を離れてしまった村落の風景が、このように異様なものとして迫ってくるものだろうか。
車の中から見る風景である。全体しか分からない。
田畑に雑草しか生えていないことさえ、私は見逃していた。
田畑と、点在する民家。変わりは無いはずなのに。
個々の詳細な事物から感じるものではない。今見えている全体の風景から感じる圧倒的な異様さである。
運転しているMはビデオカメラを持ってきていた。
「運転代わるから、ビデオに撮っておいたら」と私。
「これで映るから、お前撮れよ」
ビデオカメラを渡された。
旨く撮れるかは分からないが、一応撮ってみた。
駄目なのかもしれない。全体の風景から現場で感じるこの違和感を、映像や画像に捕らえることは難しい。
実際に見た者が、映像や画像を見て、そのときの感覚を思い出すだけなのだろう。
テレビの映像や、雑誌の画像からこのように感応することはできない。
私は旅というものを馬鹿にしていたが、その場に行かないと感じられないことは確かにあるのだと分かった。
遅すぎるが。
論理的に理解するよりも感じることのほうが、大事なときもある。
全体的に感じる能力、日本人得意だったはずですが、落ちてきているようにも思います。