2009年10月

2009年10月29日

Leak Point One Stereo 米国仕様

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ポイントワンステレオプリアンプの米国仕様が手に入りました。

お客様のを整備して以来、2度目の対面です。

いつ見ても豪華ですね。

1961年製です。


2番目の写真は、そのプリアンプ内部の配線です。

全て、コンデンサーにアルミシールドのオイルコンが使われています。

3番目の写真は、1959年製の英国仕様ポイントワンステレオの内部配線です。

MPと書いてありますので、Huntsオイルコンのメタライズドペーパーが使われています。

これら2種類のポイントワンステレオの内部を比べると、違うものではないかと思ってしまいます。




英国仕様、米国仕様の違いではありません。

以前お客様の米国仕様を整備したとき、これら2種類とは違ったコンデンサーが使われていました。

なぜ今分かるかというと、絶縁抵抗を測定したとき、黒いHuntsのモールドタイプにもかかわらず、2,000MΩを超える値を示したからです。

アルミシールドタイプも、HuntsのMP(メタライズド ペーパー)も、今測定すると10MΩの測定値を示すものはほとんどありません。

特にHuntsのMPは、小数点以下になってしまいます。

当然のことです。メタライズドペーパーもオイルコンの一種で、モールドタイプはアルミシールドに比べて安い代わりに弱く出来ているのです。

ただし、音に関しては、アルミシールドより、良かったのではないかと推測しております。

英国のサイトで、Huntsのモールドタイプが伝説のコンデンサーと呼ばれていたのを見た記憶があります。

多分メタライズドではなく、紙と金属箔を交互に使った古いオイルコンのことであると思いますが、メタライズドであっても変わらず音が良かったと思います。





少しずつ分かってまいりました。

ポイントワンステレオに使われているコンデンサーは、3種類あります。

以前お客さんのポイントワンで、絶縁抵抗が良いため、コンデンサーの交換をためらったとき、音を聴いてやっぱりこの音ではだめだと感じ、アルミシールドのオイルコンデンサーに交換したことがありました。

その経緯はブログにも書いてありますので、ご覧ください。

http://blogs.yahoo.co.jp/gakuyujp/54977468.html




さてその3種類目のコンデンサーですが、フィルムコンではないかと感じております。

フィルムコンがいつごろ作られたのかは知りませんが、少なくともオイルコンではありません。

オイルコンのふくよかな音がしません。




さて4番目の写真です。

上段にオイルコン、下段に別種のコンデンサーを並べてみました。

MetallizedとかMPと書いてあるのが、オイルコンです。

下段はMMと書かれています。

MMは絶縁抵抗がすばらしい。

しかし音がいまいちです。

おそらく劣化のほとんど無いコンデンサーとして、登場してきた筈です。




今となっては、Metallized Paperの本当の音は聴けないのでしょうが、電圧のほとんどかからないところにこのコンデンサーを入れて試してみました。

良い音がしましたが、絶縁抵抗の良いアルミシールド以上かといわれれば、明確には答えられません。



私が以前のブログで書いた勘ぐりは、間違えのようです。

まあ、間違えだったほうがうれしいですが。

この時期、Huntsは別会社に乗っ取られたのではないかと思われます。

Huntsからの供給が絶たれたために、TCCを使ったとも考えられます。

TCCやDubilierもこれ以降消えてゆきます。

おそらく、時代は音ではなく、映像(テレビ)へ移行してゆく時期だったのでしょう。

英国コンデンサーメーカーは、その流れに乗り遅れたようです。

技術というより、資本力の差であったのかもしれません。

英国の部品メーカーは、そのほとんどが他の国籍の企業に買収されて行きます。

音の良い部品メーカーが残らなかったのは残念です。

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2009年10月27日

山口県 玖珂

たぶん、3,4歳の記憶です。

玖珂に住んでいました。当時は田舎町でした。

母方の祖母がお菓子などを売る店を開いていました。

私たち家族が、祖母の家に住んでいたのかは分かりません。

戦後の食糧難の頃で、両親が他人の畑を借りて、芋などの野菜を作っていました。

土間に収穫したたくさんの野菜があったのを覚えています。

土間があったのですから、祖母の家ではなく、別の家を借りて、私たち家族はすんでいたのですね。

祖母の家には土間はありませんでした。




当時の肥料は、人糞や尿を醗酵させた肥(こえ)が使われていました。

寄生虫を持った人の人糞には、寄生虫の卵が入っています。

野菜にかけられた肥を媒介にして、寄生虫が湧くことがしばしばありました。

小さな頃よく虫下しを飲まされました。

青白い顔をして痩せた子供を見ると、大人の人たちが決まって云う言葉は、「虫でも湧いているんじゃないか」でした。

寄生虫に栄養分を取られて、痩せてしまうのです。

いま寄生虫を体に持っている人がいたら、究極のダイエットが出来るのかもしれません。

まあ、肥満児など見かけることのほとんど無い時代でした。



祖母の店の裏に、小さな庭がありました。

庭といっても花が植えてあるわけでもなく、土があるばかりで、作業をするスペースだったように思います。

庭を囲んで、渡り廊下があったように記憶しています。



私は独りでその渡り廊下に座っていました。

晴れた日で、小春日和のような日差しだったように思います。

記憶にはありませんが、気持ちが悪かったのでしょう。

何かをもどしました。

口の中で何かが動いています。

すぐに吐き出しました。




廊下の上で、ミミズのような白いものがのた打ち回っています。

そのうちに廊下から、庭の土の上に落ちていきました。

何でこんなことが起こったのか、そのときはさっぱりわかりませんでした。

親にも言いませんでした。

言ってはいけないことだと思いました。

小学生ぐらいになって回虫だったことが分かりました。



ダイエットのために体に寄生虫を飼おうと思っている方は、このようなレアな体験も出来るかもしれません。

美のためには、人間覚悟が大切です。

今となっては、回虫の卵を手に入れることのほうが難しいですが。

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2009年10月21日

山口県 祖生村 その4

これも4,5歳の記憶です。

祖生村には、当然ですが、井戸がありました。

いくつかあったはずですが、私の記憶には、一箇所だけです。

それも場所がはっきりしません。

川の近くだった、それも、いつも遊んでいた野菜を洗う場所のすぐ近くだったようにも思えます。

記憶の画像には、井戸のイメージだけが残っています。それもおぼろげです。

屋根があって滑車がついていたようにも思えますが、他で見た井戸かもしれません。




井戸の周りに、何人かの女性が集まっていました。

私はちょっと離れて、うしろから見ていました。

たぶん深刻なことが起こっていたのです。

幼児は話を理解できません。その場の雰囲気を感じるだけです。




男の人が来ました。

井戸の中へ入ると言っています。

怖い、無謀だ。

私は、<この人は戻って来ない>と思いました。




以前、井戸の中を覗いたとき、見えるのは上のほうだけで、あとは暗闇でした。

私の想像した井戸の中は、何百メートルも暗闇の空間が続き、水面に到達した後も、底なしのように深い水が続いているというものでした。

釣べの長さを考えれば、そんな想像はしないはずですが、それに気づくほどの頭を持っていなかったようです。

その頃から、閉所恐怖症の気もあったのかもしれません。

ただただ、怖かったのです。

以降の記憶が無い所を見ると、その場から逃げ出したんだと思います。




あの男の人が死んだりしたら、大変な騒ぎになっていたはずです。

無事帰ってきたということです。




女性たちの深刻そうな雰囲気と、男の人が井戸に降りて行こうとしたときの私の恐怖感だけが記憶に残っております。

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2009年10月16日

山口県 祖生村 その3

やはり、まだ幼かった4,5歳の記憶です。

今回も、祖生村の川です。

川に行く場所は決まっていました。

川に出るための小さな道がついていました。

おそらく野菜などを洗う場所だったのだと思います。




ひとりで、川端にしゃがみ、ざるで魚をすくっていました。

ざるは家から持ってきたものではなく、洗う際に野菜を入れておくためのもので、誰が使っても良かったのだと思います。

もちろん後からの想像ですが。

家から持っていったものではないとわかるのは、私はそんな周到な人間ではないからです。

性格は、行き当たりばったりです。





川にざるを入れすくうと、メダカよりも小さな稚魚が、ざるの上で飛び跳ねます。

それを採って帰ろうというのではありません。

そんな魚はありふれていて、飼う気にもなりません。

すぐに水の中にざるを入れて、またすくいます。

何が面白いのか、今では分かりませんが、それを繰り返していたのです。




舟がやってきました。

昔、田舎によくあった平底の舟です。

艫(とも)に立った人が、長い竹ざおを川底につけて後ろに押しやると、船は前に進んで行きます。

それが普通のやり方でした。

艪(ろ)などは見たこともありませんでした。

たぶん浅い川では、艪は使えないだろうし、竹ざおが一番よい方法だったのでしょう。




やってきた舟を見て、びっくりしてしまいました。

竹ざおを使っていなかったのです。




舟に座った人が、幅のある板切れを、水に差し込み、後ろにかいていました。

舟はゆっくりと前に進んでゆくのです。

なんだろうと思いました。

どうしてあれで進むのかが不思議でした。




もちろん、作用反作用がわかっていたのではありません。

今までに無いやり方に驚いただけのことです。




この光景を思い出すたびに、何か満ち足りた気分になります。

透明で緩やかな川を、ゆっくりと舟が進んで行く光景を頭の中に描くことが出来ること、それ自体が、私にとっての大切な宝物です。

記憶の画像には、舟を見ている幼い自分自身もその中に含まれています。

そのこともまた、良いのです。

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2009年10月13日

山口県 祖生村 その2

私の記憶の中の祖生村に、川が流れていたことは、前回のブログに書きました。

今回このブログを書いていて、記憶をたどっていると、私の中にある川の原風景は、この祖生村の川が形作ったと思われてきました。




私は大きな川があまり好きではありません。底が見えなくてはつまりません。

池や、湖も私の興味を惹くことはありません。


私の好みの川は、

川幅は5,6メートル、

流れは緩やかで浅く、

川底は、小石ではなく、主に砂からなり、

水草は、少しあるくらいで、

何と言っても、水が澄んでいて泳いでいる魚が見えるほど透明であってほしい。





このイメージを辿って行くと、あの祖生村の小さな川に行き着くのです。

60年になんなんとする幼い頃の記憶です。純化、理想化された部分もあるかもしれません。



後日談があります。

十数年たち、高校生になっておりました。今から、四十五年ほど前です。

夏休み、玖珂の親戚の家に遊びに来ていました。

遠くに出かけた帰りに、祖生村を車から見ました。

「ここが祖生だよ」と言われて見た先にある川は、記憶にある川とはまったく違っていました。

川の位置は同じだったと思います。

でも、あの川ではありませんでした。





ところどころ水溜りがあるばかりで、川に水が流れていませんでした。

上流にダムが出来て水無川になってしまったのか、あるいは、水のない季節だったのかはよく分かりません。

前者だとしたら、私のあの川は、記憶の中にしか存在しないことになってしまいます。

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