2009年06月

2009年06月26日

貧乏学生

苦学生という言葉が、実質的な意味を持っていたのは、戦後のベビーブーム世代である私たちまでだったのかもしれません。

私たちの世代の国公立の学生に、親が金持ちのぼんぼん育ちはほとんどいませんでした。

私の周りの学生も、中流か、それ以下の家庭の出身者ばかりでした。

中流といっても、当時の中流ですから、子供を大学に行かせるのは大変でした。

学生の生活はつましいものでした。



もちろん例外はありました。

寮で一緒だった奴に、四国の高松出身者がいました。

柔道で鍛えた体は筋肉質で、足は短く、背は低く、愛嬌のある丸顔をした奴でした。

まるで小型のダンプカーのようでした。

そいつが言うのです。

「四国の実家に10円で電話が出来る」

遠距離の電話料金は、その当時高く、ちょっと話していれば、1,000円をすぐ超えてしまいます。



そいつ金がなくなると、公衆電話から実家に電話します。

実家の誰かが電話に出たと同時に、「カネーーー」と叫びます。

電話はすぐに切れます。10円ですから。

何日かすると、金が送られてくる。

まあ、奴の家は金持ちだったのかもしれません。

そうでもなくて、親はなけなしの金を送ってきていたとも考えられます。

なんか、うむを言わせない迫力がそいつにはありましたから。



話を元に戻します。

私たちの時代、勉強が出来るのは、金持ちの子供ではありませんでした。

どちらかといえば、金のない家の子供のほうが、一所懸命勉強をしていました。

おそらく、貧乏な生活から抜け出すために、勉強して、国公立大学を目指していたのです。

家庭の事情で、国公立の大学しか行くことが出来ないという学生が多くいました。

国立の大学なら、年間の学費が12,000円でしたから、貧乏人でも大学に行くことができたのです。

この学費、都立高校の学費より安かったと記憶しております。

公立の小中高校を出て、公立の大学に行けば、親の負担はそれほどでもありませんでした。

貧しくても、勉強さえすれば、どうにかなる社会でした。

昔のほうが、階級の流動性があったのです。



現在は、東大に通う学生のほとんどが、高額年収の家庭出身者だそうですから、教育が逆に階級の固定に役立っていることになります。

学歴が全てでないとしても、このような固定化した社会は、つまりません。

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2009年06月21日

後輩

当時、アパートに暮らしていました。

アパートといっても、2階建て一般住宅のような造りの、4室からなるものでした。

私の部屋は2階で、6畳と、板敷きの台所3畳ほどでした。

家賃は6千円です。地方都市の郊外ですから、安いものでした。



壁の2面の高い位置に窓があり、横方向は柱を除いて全て窓でした。

高い建物は警察の官舎しかありませんでしたので、立つと見晴らしが大変良かったです。

遠くに刑務所の塔が見えました。

座ると空しか見えません。



引っ越したときは、カーテンもなく、朝の日差しが、まともに差し込んで、夏でもないのに暑かった。

台所まで這って行き、板敷きの上で寝ていました。

板の冷たさが心地よかったです。



2階の向かいの部屋には、同じ大学の2年後輩が二人で住んでいました。

そちらの部屋は大きく、台所と6畳が2間でした。

一人は茨城出身の法学部、論理的で知性的、もう一人は理学部、ホットというか周りで支えてあげないと、崩れそうで、危なっかしい。

その危なっかしい人間が、学生運動のセクトに入っているのですから、見ていてつらくなることもありました。



二人とは仲良くなっておりました。

バイトの給料が入ると、3人で焼肉を食べます。

肉はマトン、酒はウイスキーのトリスかレッドでした。

何と言っても、安い。

牛肉なんてとんでもありません。



法学部生は母子家庭出身でした。当然貧しかった。

彼が語った忘れられない言葉があります。

「僕は親におねだりをしたことがないのです。小さな子供だって、家の状況は子供なりに感じるものなんです」

そう、小学校に上がる前の子供にだって、家の状況がどんなものか分かるのです。

言葉によってではありません。感じるのです。

私自身、まったく同じでしたから、大変印象に残りました。



その彼が、おもちゃ屋でバイトをして、帰ってきた後、寂しそうに話しました。

「聞分けがいいのは、裕福そうな身なりをした家族の子供なんですね。貧しそうな子供のほうが駄々をこねることが多いんです」

自分との違いに戸惑いながらも、貧しい子供ほど品格を持っていてほしいと願っていることが、こちらにも伝わってきました。

貧しいことが、最良の教師になることだってあるのです。

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2009年06月12日

アルバイト

小さな設計事務所で、トレースなどの仕事をするようになって、労働とはこちらの全てを要求してくるものだと感じました。

たいした仕事をしているわけではありませんでした。それでも、学生時代とは違って、勝手気ままに本を読んだり、ボーっと考え事をしている時間が少なくなりました。

学生時代でも、その様な時間は主に夜だったのですから、アルバイトから帰ってきた夜にその時間を持てばよいはずですが、心の余裕がないのでしょうか、なかなか出来なくなりました。

仕事をしながら自分の時間も持つためには、私の苦手な克己心を必要とするようです。

困ったことには、毎日仕事に行っていると、あっという間に時が流れていくのです。

仕事を持ちつつ、さらに自分の目標とするものに向かって努力する人たちは、えらいもんだと思いました。



話は変わりますが、アルバイト先の設計事務所で、ちょっと面白い体験をしました。

パソコンなどない時代です。設計図は青焼きでした。

露光させた後、アンモニアにさらすと、青焼きが出来上がりました。

新しく出来上がった青焼きからは、アンモニアのにおいがします。

私の中で、綺麗で新しい青焼きと、アンモニアが結びつきました。

アンモニアのにおいが好きになってきたのです。



においの好みも社会性、歴史性を持ったもののように思われます。

不浄の場所である便所からする臭いであるから、アンモニアの臭いを人は嫌うのです。

花のにおいと便所のにおいが入れ替わっていたらと考えてしまう私は、異常ですかね。

アンモニアには毒性があるそうですが、青焼きからのごく薄い匂いは良いもんでした。

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2009年06月04日

真空管データ探索

真空管のデータを知る際、大変重宝しているサイトです。
他にもあると思いますが、英国製のレアな真空管も、リンクが張られていますので、そのデータにどうにかたどり着けます。

http://tdsl.duncanamps.com/tubesearch.php

箱の中に真空管名を記入し、Queryのボタンを押すと情報が得られます。

試してみてください。

gtkaudio at 17:27|PermalinkComments(0)オーディオ 

2009年06月02日

数について

高校生のとき数学の授業で、「二乗して-1になる数はないから、二乗して-1になる数を±iと決める」と教師に教えられたとき、「そんな、勝手に決めていいのかよ?」と思いました。

このとき馬鹿なことに、1,2,3,‥‥という数でさえ、人間が勝手に決めたものであるとは、思いもよりませんでした。

1,2,3,‥‥という数は、小さな頃から、慣れ親しんできたものですから、まるで自然界に存在しているもののように感じていただけだったのです。

これ、人間が勝手に決めたものなんですね。



それにしても、例えば捕獲した獲物や、採集した果実の数を、指を折って数える所から始まり、具体的な獲物や果実から離れ、そこから抽象された数という概念を作り出すまで、途方もない年月を必要としたのではないのかと、想像してしまいます。

おそらく、獲物1頭、果実一個に対して、同様に一本の指を折る行為そのものが、抽象化の第一歩であったはずです。

自然界には存在しないひとつひとつの数に、いち、に、さん、‥‥と名前を付けて行くなんて、すごいことです。

多くの天才が関わったはずです。



抽象化されたものとは意識させることなく、自然界にあるかのごとく、子供に数を教え込む、これいい方法ですね。

gtkaudio at 04:33|PermalinkComments(0)欧米人