2008年12月
2008年12月27日
人間関係の深淵
大学を卒業後、就職して間もないころの話だ。
久しぶりに会った大学時代の口の悪い友人が、私のネクタイを見てぬかしおった。
「お前、センスいいよな。お前じゃなくて、他の人がつければ、もっといいよな」
へー、そんなもんかと思った。
他日、一番仲の良い友人に、この話をしたら、慰めてくれたか。
とんでもない。
こいつもぬかしおった。
うれしそうに、
「お前、全てにおいてそうじゃないか。
お前は良いこと言うんだ。
だけど、お前が言ったら駄目なんだ」
なんとも友達甲斐のない話だが、これは人間関係の深淵を衝いている。
こう云ってくれた友人を、かけがいのない者として大事にしている。
人間は生まれながらに不平等に出来ている。
私が良いことを語ったとしても、受け入れてもらえないのは、まあどうしようもない。
私は、そんなものかと受け入れている。
私は、小学生の頃、教師にかわいがられた記憶がない。
反抗していたわけではない。静かだった。
拒否されるのが怖くて、甘えることもできなかった。
教師には受け入れてもらえない子供だった。無視に近い存在だった。
小学時代はつらかったが、中学2年のとき、現実を受け入れることにした。
気が楽になった。
少し大人になったのである。
他人に、抵抗なく受け入れられる人は幸いだ。
しかし、それだけのことだ。
私に見えて、その人たちには見えない多くのことがある。
他人に受け入れられる必要はない。
そう思ったとき、見えなかったものが見えてくる。
人間は、同じことを話していたとしても、それを発する人によって、受け取られ方はまったく変わって来る。
私の場合は、まあ、駄目だ。
顔がある、その人固有の雰囲気がある。
この現実は、受け入れるしかない。
演技をすれば、最大公約数の好みに合わせることはできる。
しかし、馬鹿らしい。
疲れること必定だ。
どうして、この現実を受け入れようとしないのか。
他人を恨んでみても、何も解決にはならないではないか。
おそらく、理由のない犯罪を犯す人々は、この現実を受け入れることが出来ないのだ。
他人が悪いのではない。
人間関係とは、もともと不平等に出来ているのだから。
自分自身を考えればよい。
誰に対しても同じように接しているか。
していないはずだ。
甘えないでほしい。
久しぶりに会った大学時代の口の悪い友人が、私のネクタイを見てぬかしおった。
「お前、センスいいよな。お前じゃなくて、他の人がつければ、もっといいよな」
へー、そんなもんかと思った。
他日、一番仲の良い友人に、この話をしたら、慰めてくれたか。
とんでもない。
こいつもぬかしおった。
うれしそうに、
「お前、全てにおいてそうじゃないか。
お前は良いこと言うんだ。
だけど、お前が言ったら駄目なんだ」
なんとも友達甲斐のない話だが、これは人間関係の深淵を衝いている。
こう云ってくれた友人を、かけがいのない者として大事にしている。
人間は生まれながらに不平等に出来ている。
私が良いことを語ったとしても、受け入れてもらえないのは、まあどうしようもない。
私は、そんなものかと受け入れている。
私は、小学生の頃、教師にかわいがられた記憶がない。
反抗していたわけではない。静かだった。
拒否されるのが怖くて、甘えることもできなかった。
教師には受け入れてもらえない子供だった。無視に近い存在だった。
小学時代はつらかったが、中学2年のとき、現実を受け入れることにした。
気が楽になった。
少し大人になったのである。
他人に、抵抗なく受け入れられる人は幸いだ。
しかし、それだけのことだ。
私に見えて、その人たちには見えない多くのことがある。
他人に受け入れられる必要はない。
そう思ったとき、見えなかったものが見えてくる。
人間は、同じことを話していたとしても、それを発する人によって、受け取られ方はまったく変わって来る。
私の場合は、まあ、駄目だ。
顔がある、その人固有の雰囲気がある。
この現実は、受け入れるしかない。
演技をすれば、最大公約数の好みに合わせることはできる。
しかし、馬鹿らしい。
疲れること必定だ。
どうして、この現実を受け入れようとしないのか。
他人を恨んでみても、何も解決にはならないではないか。
おそらく、理由のない犯罪を犯す人々は、この現実を受け入れることが出来ないのだ。
他人が悪いのではない。
人間関係とは、もともと不平等に出来ているのだから。
自分自身を考えればよい。
誰に対しても同じように接しているか。
していないはずだ。
甘えないでほしい。
2008年12月20日
Decca ffssカートリッジのアンダーカバー(スタイラスカバー)
私の場合、カートリッジをアームに装着しているときは、アンダーカバーをつけておりませんが、カートリッジ単独でどこかに置いておく際、アンダーカバーが無いと大変困ります。
それで、写真のようなカバーを作っております。
見た目を気にする方には、こんなものでは満足できないかもしれませんが、片手でカートリッジをカバーから取り出せますので、置いておく際にはオリジナルよりも便利です。
作り方です。
発泡スチロール等の適当な素材で作ります。
写真のような適当な大きさ(直方体)にナイフを使って切り出します。
写真の場合は、4.1x3.3x2.0cmです。
私が作るときは測ってはおりませんので、この値は参考程度です。
次にカートリッジの縦横の大きさにくりぬいてゆきます。
くりぬく深さは、発泡スチロールの厚みの半分程度です。
最後に真ん中に穴を開けて、針が発泡スチロールにあたらないようにします。
これで終わりです。
写真を参考にしてください。
工作は大変簡単です。
ナイフで怪我をしないように。
2008年12月15日
こんなん作りました その2
以前のものはウレタンニスの塗りっぱなしでしたが、今回はピアノフィニッシュに挑戦しました。
何度も厚塗りして、最後に磨く方針でやってみました。
油性ニスを刷毛で、塗って1日乾かす、を5度ほど繰り返しました。
途中1度、水ペーパーででこぼこをとりました。
最後に、1000番、2000番、の水ペーパーで磨き、車に使われる鏡面仕上げ用コンパウンドで仕上げてあります。
まあ素人がやることですから、ピアノの鏡面ほどには行きませんが、私としては満足しております。
写真が下手です。
実物のほうが艶があって綺麗です。
素人もふんだんに時間を掛ければ、ある程度はうまく出来るもんだとわかりました。
画像をクリックすれば、詳細画面を見ることが出来ます。
関連ブログです。
http://blogs.yahoo.co.jp/gakuyujp/57174138.html
2008年12月11日
理科離れ
たわ言と思って読んでください。
理科離れが深刻になったのは、授業に実験を多く取り入れるようになってからではないでしょうか。
それは、当然の結果と私には思えます。
実験はほとんどが作業なのです。
やり方の説明を受け、時には説明を読みながらその通りに作業してゆきます。
そのあいだは、理科にとって大切な考えるという作業はほとんど行われておりません。
単純作業に終始します。
生徒全員がそうだとは申しません。
興味ある生徒はその実験から多くを吸収することもあります。
しかしほとんどの生徒にとって、ちゃんと実験が出来るように、単純作業をしているのです。
生徒に実験を多くやらせる先生が良い先生であると一般には考えられています。
私はその考えにまったく反対です。
私が塾で教えていた当時、学校でほとんどの授業を実験についやす先生に教えられている生徒は、理科の出来が良くありませんでした。
実験が多くなればなるほど、どのように考えてゆけばよいかを、すなわち考える道筋を、教える時間が削られてゆきます。
実験を絡めた問題が出てきたとき、生徒の言った言葉が忘れられません。
「この実験はやったことがないから、わからない」
呆然としてしまいました。
結果だけを覚えるものとみなしているのです。
私が中学生のとき、授業で実験をした記憶はほとんどありません。
日本はまだ貧しく、中学生の生徒全員に何度も実験をさせる余裕はなかったかと思います。
けれども、理科は大好きでした。考えることが好きだったのです。
その様な生徒が多くいました。
興味あることは自分たちで実験していました。
高校に入り、実験ばかり生徒にやらせる化学の先生に教えてもらったとき、作業としか感じられませんでした。
化学は嫌いになりました。
物理は100点、化学は4点でした。
化学で赤点を取り、親が呼び出されました。
もちろん、考えることが好きで暗記が不得意な私の性格のせいでもありましたが。
化学は、最初に覚えなくてはならないことが多すぎました。
すみません話が横道にそれてしまいました。
理科の教育についてです。
次のように考えています。
理科教育は実験が全てではありません。
実験は先生が、何を確認しようとしているかを生徒に説明しながら、自分でやり、それを生徒に見せれば良い。
生徒に実験をさせるのは、学期間で1度あれば十分です。
空いた時間を、考え方を教えたり生徒に考えさせたりする時間に当てる。
実験に興味のある生徒には、先生にその余裕があるかわかりませんが、課外でやらせる。
今日ニュースを見ていたら、アナウンサーが、あいも変わらず実験を礼賛するようなことをいっているのを見て、このブログに書く気になりました。
生徒に実験を多くやらせれば、理科離れを防げると考えることは、間違いです。
理科離れが深刻になったのは、授業に実験を多く取り入れるようになってからではないでしょうか。
それは、当然の結果と私には思えます。
実験はほとんどが作業なのです。
やり方の説明を受け、時には説明を読みながらその通りに作業してゆきます。
そのあいだは、理科にとって大切な考えるという作業はほとんど行われておりません。
単純作業に終始します。
生徒全員がそうだとは申しません。
興味ある生徒はその実験から多くを吸収することもあります。
しかしほとんどの生徒にとって、ちゃんと実験が出来るように、単純作業をしているのです。
生徒に実験を多くやらせる先生が良い先生であると一般には考えられています。
私はその考えにまったく反対です。
私が塾で教えていた当時、学校でほとんどの授業を実験についやす先生に教えられている生徒は、理科の出来が良くありませんでした。
実験が多くなればなるほど、どのように考えてゆけばよいかを、すなわち考える道筋を、教える時間が削られてゆきます。
実験を絡めた問題が出てきたとき、生徒の言った言葉が忘れられません。
「この実験はやったことがないから、わからない」
呆然としてしまいました。
結果だけを覚えるものとみなしているのです。
私が中学生のとき、授業で実験をした記憶はほとんどありません。
日本はまだ貧しく、中学生の生徒全員に何度も実験をさせる余裕はなかったかと思います。
けれども、理科は大好きでした。考えることが好きだったのです。
その様な生徒が多くいました。
興味あることは自分たちで実験していました。
高校に入り、実験ばかり生徒にやらせる化学の先生に教えてもらったとき、作業としか感じられませんでした。
化学は嫌いになりました。
物理は100点、化学は4点でした。
化学で赤点を取り、親が呼び出されました。
もちろん、考えることが好きで暗記が不得意な私の性格のせいでもありましたが。
化学は、最初に覚えなくてはならないことが多すぎました。
すみません話が横道にそれてしまいました。
理科の教育についてです。
次のように考えています。
理科教育は実験が全てではありません。
実験は先生が、何を確認しようとしているかを生徒に説明しながら、自分でやり、それを生徒に見せれば良い。
生徒に実験をさせるのは、学期間で1度あれば十分です。
空いた時間を、考え方を教えたり生徒に考えさせたりする時間に当てる。
実験に興味のある生徒には、先生にその余裕があるかわかりませんが、課外でやらせる。
今日ニュースを見ていたら、アナウンサーが、あいも変わらず実験を礼賛するようなことをいっているのを見て、このブログに書く気になりました。
生徒に実験を多くやらせれば、理科離れを防げると考えることは、間違いです。
2008年12月05日
12AX7/ECC83 Mullard ロゴ Telefunken製造
Mullardの真空管に、foreign madeと書いてあると、残念と思ってしまうものですが、今回はがっかりはしませんでした。
今日真空管の測定をしていたら、管底にダイヤマークが付いていたのです。
Telefunkenで作られ、MullardのLogoを印刷して販売されたものです。
Mullard製のTelefunkenロゴは何度か見たことはありますが、その逆を私は初めて見ました。
エッチングコードはありません。
管底に目が留まらなければ、「おそらくPhilips製」と言って売るところでした。
皆様お持ちの真空管にもこのようなものがあるかもしれません。
お気をつけください。
皆様は周知のことかもしれませんが、私にとっては初めてでしたので、紹介しました。
ご参考まで。