2008年08月
2008年08月30日
ロケット
小学生のころ、ロケットは憧れでした。
ペンシルに始まり、カッパー、ラムダと次第に大きくなってゆく日本のロケットに心ときめかしたものです。
誰かが、鉛筆のキャップでロケットを飛ばしたと自慢していました。
自分もやってみたい。
同じく興味を持った友人と一緒にやることになりました。
そいつは家が金持ちなのか小学生にしては金回りが良かったのです。
たぶん材料費は彼が出したはずです。
金属製のキャップと、火薬に使う花火を買って、川に行きました。
川といってもU字溝を大きくしたような川で幅は5メートルほどしかありません。
「幅が狭すぎないか、向こう側が危険だよ」と私。
私の頭の中では、10メートルは飛んでいる。
「ぶつかっても大丈夫だよ」友人は威力のなさを強調する。
友人の頭の中では7メートル飛んでいるのだろうか。
まあいい、先ずはやってみることにする。
キャップに火薬をつめて、端を潰す。
護岸のコンクリートの上に、ロケットを川に向けて設置する。
マッチで後ろをあぶる。点火。プシュ。
うん?
ショボイ。
あれが飛んだということなのか。
のたうち回って、コンクリートの淵から落ちていっただけのことだ。
ショボイ。
何度やっても同じこと。
頭の中での10メートルの飛翔は、見事に裏切られ、二人してしょぼくれながら彼の家に帰りました。
彼の家で話を始めたときです。
面白いものが目に入りました。
窓際で、小さな豆球が点滅している。
豆球の下には細長い透明なガラスの容器があり、中に液体が入っています。
分かってきました。道路工事の時に使われる非常灯です。5,6個あります。
持って来ちゃったんだ。無茶する奴だ。
「そんなことしちゃ駄目だ」などとは言いませんでした。
あまりに魅力的でした。
ただ残念なことに暗くなってきています。
回復させたい。
ガラス容器の中の液体に秘密がありそうだ。
何の液体だろう。
分からないときの検査方法はただひとつ。
舐めてみる。
舐めた。
う。
電気が流れたような刺激。
ちょっと萎える。
それでも追求の意欲は萎えることはない。
小学生の少ない経験から結論をはじき出した。
「これは塩水だろう、かなり濃いね」
濃い塩水を作り、小さな穴から入れてみた。
どうだ。
暗く点いていた明かりも消えた。
馬鹿者ですな。
ペンシルに始まり、カッパー、ラムダと次第に大きくなってゆく日本のロケットに心ときめかしたものです。
誰かが、鉛筆のキャップでロケットを飛ばしたと自慢していました。
自分もやってみたい。
同じく興味を持った友人と一緒にやることになりました。
そいつは家が金持ちなのか小学生にしては金回りが良かったのです。
たぶん材料費は彼が出したはずです。
金属製のキャップと、火薬に使う花火を買って、川に行きました。
川といってもU字溝を大きくしたような川で幅は5メートルほどしかありません。
「幅が狭すぎないか、向こう側が危険だよ」と私。
私の頭の中では、10メートルは飛んでいる。
「ぶつかっても大丈夫だよ」友人は威力のなさを強調する。
友人の頭の中では7メートル飛んでいるのだろうか。
まあいい、先ずはやってみることにする。
キャップに火薬をつめて、端を潰す。
護岸のコンクリートの上に、ロケットを川に向けて設置する。
マッチで後ろをあぶる。点火。プシュ。
うん?
ショボイ。
あれが飛んだということなのか。
のたうち回って、コンクリートの淵から落ちていっただけのことだ。
ショボイ。
何度やっても同じこと。
頭の中での10メートルの飛翔は、見事に裏切られ、二人してしょぼくれながら彼の家に帰りました。
彼の家で話を始めたときです。
面白いものが目に入りました。
窓際で、小さな豆球が点滅している。
豆球の下には細長い透明なガラスの容器があり、中に液体が入っています。
分かってきました。道路工事の時に使われる非常灯です。5,6個あります。
持って来ちゃったんだ。無茶する奴だ。
「そんなことしちゃ駄目だ」などとは言いませんでした。
あまりに魅力的でした。
ただ残念なことに暗くなってきています。
回復させたい。
ガラス容器の中の液体に秘密がありそうだ。
何の液体だろう。
分からないときの検査方法はただひとつ。
舐めてみる。
舐めた。
う。
電気が流れたような刺激。
ちょっと萎える。
それでも追求の意欲は萎えることはない。
小学生の少ない経験から結論をはじき出した。
「これは塩水だろう、かなり濃いね」
濃い塩水を作り、小さな穴から入れてみた。
どうだ。
暗く点いていた明かりも消えた。
馬鹿者ですな。
2008年08月24日
貧しかった時代
昭和30年代の日本全体がまだ貧しかった時代のことを書いて見ます。
友人たちのことを書きたいのですが、その前に私自身の家のことを書きます。
小学校低学年の当時は何も感じてはいませんでしたが、今から思えば、私の家もまさに貧乏所帯でした。
私が5歳のときに家族4人で田舎から上京して来ました。
落ち着いた先が、東京の下町、貧乏長屋が建ち並ぶその一廓です。
貧乏人が肩を寄せ合って暮らしていました。
私の家も2軒長屋の1軒と言いたいところですが、残念ながら違います。
1軒を借りる余裕はありませんでした。
1軒の家に、2所帯が暮らしていたのです。
家のつくりは、2階建てで、1階は小さな玄関、2畳と4畳半の和室、2畳ほどの台所と便所でした。
暗い階段を上って,2階には3畳と6畳の和室、3畳を出ると物干しがありました。
2軒長屋のもう1軒も、境に鏡があるかのように、シンメトリックに建てられていました。
便所は2軒長屋の1軒ごとにひとつずつありましたが、電球は2軒の共同です。
隣り合わせに作られた便所の壁の上方に長方形の穴が開いていて、小さな豆球が点いていました。
その豆球1個で、2軒の便所を照らしていたのです。
スイッチはあったのかもしれませんが、豆球が消されることはありません。常時点灯していました。
両方の家で点灯をコントロールすることが出来なかったせいです。
今から思えばなぜこんなつくりにしたのかと、1軒ごとに電球を付ければいいじゃないかといぶかしく思いますが、時代の違いとしか言いようがありません。
過ぎてしまった時代の考え方は、後の時代から見ると理解不能のことが多いのです。
私たち家族に与えられたスペースは、2階の6畳だけでした。
家族4人がその6畳に暮らしていました。
襖1枚隔てた2階の3畳は、階下にすむ家族の娘さんの部屋でした。
娘さんの部屋を通って物干しに出ます。親たちはどうか知りませんが、私たち子供はことわることもせず、平気で部屋を通っていました。
プライバシーなどという高級な考え方はなかった時代です。
私たち家族は、玄関を使うことは出来ませんでした。玄関は階下の家族のものです。
私たちは、狭い路地を伝い、台所の裏口から出入りしていました。
母が食事の用意をしていた画像が頭の中に残っています。
台所を出た路地に七輪を置いて煮炊きをしていた光景です。
台所は階下の家族のものでした。水道は使わせてもらいましたが、ガスは使えなかったのです。
友人にこのことを話したら、「俺んちは家族6人が4畳半に暮らしていた」と返ってきました。
今から50年ほど前は、こんな生活もざらにあったのです。
友人たちのことを書きたいのですが、その前に私自身の家のことを書きます。
小学校低学年の当時は何も感じてはいませんでしたが、今から思えば、私の家もまさに貧乏所帯でした。
私が5歳のときに家族4人で田舎から上京して来ました。
落ち着いた先が、東京の下町、貧乏長屋が建ち並ぶその一廓です。
貧乏人が肩を寄せ合って暮らしていました。
私の家も2軒長屋の1軒と言いたいところですが、残念ながら違います。
1軒を借りる余裕はありませんでした。
1軒の家に、2所帯が暮らしていたのです。
家のつくりは、2階建てで、1階は小さな玄関、2畳と4畳半の和室、2畳ほどの台所と便所でした。
暗い階段を上って,2階には3畳と6畳の和室、3畳を出ると物干しがありました。
2軒長屋のもう1軒も、境に鏡があるかのように、シンメトリックに建てられていました。
便所は2軒長屋の1軒ごとにひとつずつありましたが、電球は2軒の共同です。
隣り合わせに作られた便所の壁の上方に長方形の穴が開いていて、小さな豆球が点いていました。
その豆球1個で、2軒の便所を照らしていたのです。
スイッチはあったのかもしれませんが、豆球が消されることはありません。常時点灯していました。
両方の家で点灯をコントロールすることが出来なかったせいです。
今から思えばなぜこんなつくりにしたのかと、1軒ごとに電球を付ければいいじゃないかといぶかしく思いますが、時代の違いとしか言いようがありません。
過ぎてしまった時代の考え方は、後の時代から見ると理解不能のことが多いのです。
私たち家族に与えられたスペースは、2階の6畳だけでした。
家族4人がその6畳に暮らしていました。
襖1枚隔てた2階の3畳は、階下にすむ家族の娘さんの部屋でした。
娘さんの部屋を通って物干しに出ます。親たちはどうか知りませんが、私たち子供はことわることもせず、平気で部屋を通っていました。
プライバシーなどという高級な考え方はなかった時代です。
私たち家族は、玄関を使うことは出来ませんでした。玄関は階下の家族のものです。
私たちは、狭い路地を伝い、台所の裏口から出入りしていました。
母が食事の用意をしていた画像が頭の中に残っています。
台所を出た路地に七輪を置いて煮炊きをしていた光景です。
台所は階下の家族のものでした。水道は使わせてもらいましたが、ガスは使えなかったのです。
友人にこのことを話したら、「俺んちは家族6人が4畳半に暮らしていた」と返ってきました。
今から50年ほど前は、こんな生活もざらにあったのです。








