2008年02月
2008年02月21日
Decca ffss カートリッジ 黒腹、赤腹、白腹
Decca ffss カートリッジでよく問題となるプラスチックの部品の色についての疑問です。
Decca愛好家の間で通説となっている製造時には赤腹が装着され、針交換がなされると白腹に変えられるという迷信についてです。
多くのDeccaカートリッジを扱っていますと、どうもこの話はうそっぽいと思っておりました。
私のところに白腹で、かつ部品の乗る内部のボディーまで白いMK(写真右端)があります。
新しい時代のLPでは針音が気になるのですが、古いLPでは大変良い音がします。
白腹の上にはDのコードがあり、どう見てもオリジナルのように思えるのですが、内部のボディーが白いことから、疑えばMK靴H4eを無理やりMK気離院璽垢貌?譴Dコードにしたとも考えられます。
1.5グラムの針圧では、不安定になりますので、軽針圧のカートリッジとは思えませんでした。
ちょうどDeccaのカートリッジ部門で働いていたJohn Wrightと取引しているところでしたので、次のような質問をしてみました。
内部のボディーが白いと云うことは、このMK1が実際にはH4Eのカートリッジを表しているのか、それとも白い内部ボディーを持つMK気眤減澆垢襪里、という内容です。
I have a question that confuses me.
A Decca ffss MK1 of mine has a white inner body and a white bottom sheet with D code.
Does a white inner body express it is practically a H4E?
Or some MK1’s have white inner bodies?
Sorry for many enquiries.
次の日、大変明確な返事をもらいました。
The colour of the plastic components varied throughout the life of the ffss heads.
They started out black then black & white, red, red & white and finally mainly white.
Some had all three colours.
The colour changed as new production runs changed.
3つの色とは、部品の乗る内部ボディー、赤腹とか呼ばれる薄いプラスチック板、外部を覆うカバーの色のことです。
同じMK気任盧遒蕕譴觧?紊砲茲蠅匹鵑匹鷽Г変わって行ったようです。
カバーだけはカートリッジの種類を表すものですからきちんとしていましたが、内部ボディーとプラスチック板はさまざまな色が使われていたことが2行目に書いてあります。
内部ボディーとプラスチック板の色は、黒-黒から始まり、黒-白、赤-赤、赤-白、最後に白-白になったようです。
まあ、カバー以外は、なんでもありと云うことです。
一つのカートリッジに3色が使われたものもあります。
確かに、MK気如▲バーは黒、内部ボディーは赤、プラスチック板は白なんていうのはざらにあります。
そしてそれも製造段階での話です。
赤腹なら針はオリジナルなどと云う保障もありません。
製造段階でこうですから、針交換の際、赤腹が白腹に換えられたのは、MK靴H4Eの製造に白のプラスチック板が使われていたからそれを転用しただけのことです。
英国人はそんなことに頓着しないのです。
John Wrightは、私も含め日本人とはなんて変なことを気にする人間かと思っているはずです。
日本のオーディオ界には、わけのわからない迷信が多すぎます。
お礼と、ブログにJohn Wrightの英文を載せてもよいかとたずねました。
Thank you very much for the clear response.
Your lucid explanation drove away all the doubt that not only I but also many Japanese had about the colour of the plastic components for a long time.
I will let the Japanese Decca ffss users know that through my Blog.
Could you allow me to quote your English explanation?
I appreciate your kindness.
許可してくれました。それで彼の英文をそのまま引用しました。
Yes, you can quote me.
Only pleased to help, you only have to ask.
くだらない質問に丁寧に答えてくれて、まことにありがたいことです。
追記
考えてみると、こういうことだったんですね。
Mk気諒△論擬阿砲蝋?任后
MK兇鯣売したとき、MK兇諒△鮴屬坊茲瓩泙靴拭
MK気睚孫圓靴独稜笋靴討い泙靴燭里如黒の部品がなくなったとき、MK桐僂寮屬良品をMK気砲眦祥僂靴泙靴拭
MK靴主流になった際には、白の部品を大量に作ります。赤の部品がなくなると、MK機MK兇良品にMK畦僂稜鬚良品をどんどん使ったのです。
黒や赤の部品を別に作ることなど、考えもしなかったのでしょう。
なんとも国民性の違いというか、おおらかですな。
「えー、プラスチックの色?そんなの音には関係ねえだろ」と言われそうです。
2008年02月10日
耳の良さ
オーディオ好きにとっての耳の良さについて考えています。
オーディオにとって機能としての耳の良さは、それほど大切なことではないように思えて仕方がありません。
例えば次のような状況を設定してみます。
5人のオーディオマニアが集まって、試聴会をしていたとします。
4人はその音に感動し、楽しい気分になっていたとします。
残りのひとりが、ワウフラッターがおかしいとか、小さな歪を感じると言い出したとします。
残りの4人にはわかりません。
その人はうそをついているのでなければ、機能としての耳が良いのです。
それは現実にありえます。
異能の人は存在するものです。
さて4人はどうするか。
おそらく自分たちの耳の悪さに、つらい気分になるでしょう。
その耳の良い人はオーディオの集まりの主役になるかもしれません。
耳の良い人に、自分の家の音を聴いてもらい、欠点を指摘してもらうこともあるかもしれません。
全く馬鹿げたことです。
音を聴くことで喜びを得ると云うことは、あくまで個人的なことです。
今までの体験や、その属している文化や歴史から出来上がった美の基準に当てはまる音を聴いた時、あるいはその基準に当てはまらないとしても、新たな美の提示に心揺さぶられた時、人は感動します。
おそらく、その作業のほとんどは脳で行われています。
そのことがオーディオマニアにとってもっとも大切なことであるはずです。
4人が歪を感じないとしたら、4人にとって歪は無いのです。
オーディオマニアは測定器になる必要はありません。
目的はただ一つ、感動できるかどうかです。
感動する能力があるかどうかの問題です。
あくまでも個人の問題です。
機能としての良い耳を持った人は、小さな歪にとらわれて感動できないなら、個人的に解決すればよいことです。
その人がオーディオマニアとして優秀であるわけでもありません。
視力6.0の異能の人が、文学的にすばらしい能力を持っているという保障は何処にもありません。
私はオーディオとは文学に近いものとして認識しております。
オーディオにとって機能としての耳の良さは、それほど大切なことではないように思えて仕方がありません。
例えば次のような状況を設定してみます。
5人のオーディオマニアが集まって、試聴会をしていたとします。
4人はその音に感動し、楽しい気分になっていたとします。
残りのひとりが、ワウフラッターがおかしいとか、小さな歪を感じると言い出したとします。
残りの4人にはわかりません。
その人はうそをついているのでなければ、機能としての耳が良いのです。
それは現実にありえます。
異能の人は存在するものです。
さて4人はどうするか。
おそらく自分たちの耳の悪さに、つらい気分になるでしょう。
その耳の良い人はオーディオの集まりの主役になるかもしれません。
耳の良い人に、自分の家の音を聴いてもらい、欠点を指摘してもらうこともあるかもしれません。
全く馬鹿げたことです。
音を聴くことで喜びを得ると云うことは、あくまで個人的なことです。
今までの体験や、その属している文化や歴史から出来上がった美の基準に当てはまる音を聴いた時、あるいはその基準に当てはまらないとしても、新たな美の提示に心揺さぶられた時、人は感動します。
おそらく、その作業のほとんどは脳で行われています。
そのことがオーディオマニアにとってもっとも大切なことであるはずです。
4人が歪を感じないとしたら、4人にとって歪は無いのです。
オーディオマニアは測定器になる必要はありません。
目的はただ一つ、感動できるかどうかです。
感動する能力があるかどうかの問題です。
あくまでも個人の問題です。
機能としての良い耳を持った人は、小さな歪にとらわれて感動できないなら、個人的に解決すればよいことです。
その人がオーディオマニアとして優秀であるわけでもありません。
視力6.0の異能の人が、文学的にすばらしい能力を持っているという保障は何処にもありません。
私はオーディオとは文学に近いものとして認識しております。