2007年12月
2007年12月08日
山スキー 友人C 友人A その1
また、スキーの話です。
私は、これまでに3度スキーに行きました。もう、4度目はありません。
3度目は、コンピューターソフトの会社に勤めていた時で、レンタルのスキーを折ってしまい、ほとんど滑りませんでした。
今回は、2度目のスキーの話です。
その時は感じませんでしたが、ブログに書くために記憶をたどっていて、なんとすばらしい体験をしたことかと、連れて行ってくれた友人Cに、今になって感謝の気持ちがわいてきました。
ど素人に、山スキーの体験をさせてくれたのです。
まさに、雪に抱かれていたようなものでした。
たぶん、大学3年の冬です。4年だったのかも。おぼろげです。
山岳部の部長だった友人Cが、蔵王にある大学の山小屋に行こうと誘ってくれました。
どこかに出かけることを好まない性格ですので、いつものように、断ったと思います。
友人Cはあきらめず、装備は全部用意すると言っています。
それならと云うことで、行くことにしました。
友人Aにも話したら、行きたいと言うので、3人で行くことになりました。
友人Aは、私と違い、動くことが大好きなのです。
気心の知れた仲間とですから、楽しいはずです。
宮城蔵王から山に入りました。
途中、樹氷も見たような気がします。
その頃になると、全て相手任せのさすがの私も、かなり危険なところに来ていることに気付き、友人Cについて行こうと一所懸命になっていたと思います。
友人Aも同様だったと思います。
樹氷を愛でている余裕はありませんでした。
シールと云うものがあります。Seal(アザラシ)です。
かつてはアザラシの皮で作ったからこの名前が付いたと聞いております。
スキーの板の下に履かせます。
毛並みを後方に向かうように装着すると、雪に引っ掛かりが出来、軽い傾斜ならばスキーを前後するだけで、登ってゆくことが出来ます。
下り坂では引っ掛かりませんから、滑っていくことが出来たと思います。
「雪山賛歌」に、「シールはずしてパイプの煙」と云う歌詞があります。
小さな時、この歌を歌っていたころ、シールの意味はわからず歌っていました。
歌詞がわからなかったといえば、「こいのぼり」の「たちばなかおる、朝風に」は理解不能でした。
どうして人の名前が出てくるのかわかりませんでした。
橘香さんは、どういう人なのかと不思議に思いながら歌っておりました。
源平藤橘は、日本の苗字の代表です。
まことにもって、紛らわしい。
「雪山賛歌」は、雪山に慣れた山男の歌ですね。
「シールはずしてパイプの煙」の歌詞は、苦労する登りが終わり、一服して、これからは楽な下りがあることを想起させます。
勿論、スキーのへたな私にとって下りが楽であるはずがありません。
樹間を通り過ぎると、樹のない開けた雪原に出ました。
その雪原は、砂丘のようにうねっていました。
ここでシールを付けたと思います。
シールはたいしたものでした。
楽に登って行けました。
問題は、下りでした。
下って、うねりの底に着いたら、止まらなければなりません。
止まれないのです。転ぶことになります。
誰も踏みしめていない新雪です。
スキーは雪上にあります。
体は、雪に嵌ります。
スキーを中心に、180度回転し、真っ逆さまになった感覚です。
柔らかい新雪ですから、全く痛みなどありません。
ここから、もがいて体を起こすのが一苦労でした。
何度も転びました。そのたびにもがきました。
その時は必死でした。大変疲れました。
しかしながら、今想い返して、私のようなものが、こんな経験を出来たことを感謝したい気分になっております。
激しく転倒して、痛みを感じることもなく、雪に優しく、抱きかかえられるのです。
ゲレンデでスキーをしているだけでは、到底味わえないものでした。
山スキーをなさる方なら、なんとも無いことでしょうが、スキー2度目で、このようなことを体験できたことを、友人Cに感謝しております。
雪に優しく、抱きかかえられることをイメージするだけで、今でも幸せな気分になるのです。
友人Cは、ヒマラヤ山岳隊を組織するために、企業を回って支援してもらおうと計画しておりましたが、山の麓の地域の政情不安とかで、立ち消えになってしまいました。
私に何の力もありませんでしたが、行かせてあげたかったです。
<山小屋に着いてからの話は、続きに書きます>
私は、これまでに3度スキーに行きました。もう、4度目はありません。
3度目は、コンピューターソフトの会社に勤めていた時で、レンタルのスキーを折ってしまい、ほとんど滑りませんでした。
今回は、2度目のスキーの話です。
その時は感じませんでしたが、ブログに書くために記憶をたどっていて、なんとすばらしい体験をしたことかと、連れて行ってくれた友人Cに、今になって感謝の気持ちがわいてきました。
ど素人に、山スキーの体験をさせてくれたのです。
まさに、雪に抱かれていたようなものでした。
たぶん、大学3年の冬です。4年だったのかも。おぼろげです。
山岳部の部長だった友人Cが、蔵王にある大学の山小屋に行こうと誘ってくれました。
どこかに出かけることを好まない性格ですので、いつものように、断ったと思います。
友人Cはあきらめず、装備は全部用意すると言っています。
それならと云うことで、行くことにしました。
友人Aにも話したら、行きたいと言うので、3人で行くことになりました。
友人Aは、私と違い、動くことが大好きなのです。
気心の知れた仲間とですから、楽しいはずです。
宮城蔵王から山に入りました。
途中、樹氷も見たような気がします。
その頃になると、全て相手任せのさすがの私も、かなり危険なところに来ていることに気付き、友人Cについて行こうと一所懸命になっていたと思います。
友人Aも同様だったと思います。
樹氷を愛でている余裕はありませんでした。
シールと云うものがあります。Seal(アザラシ)です。
かつてはアザラシの皮で作ったからこの名前が付いたと聞いております。
スキーの板の下に履かせます。
毛並みを後方に向かうように装着すると、雪に引っ掛かりが出来、軽い傾斜ならばスキーを前後するだけで、登ってゆくことが出来ます。
下り坂では引っ掛かりませんから、滑っていくことが出来たと思います。
「雪山賛歌」に、「シールはずしてパイプの煙」と云う歌詞があります。
小さな時、この歌を歌っていたころ、シールの意味はわからず歌っていました。
歌詞がわからなかったといえば、「こいのぼり」の「たちばなかおる、朝風に」は理解不能でした。
どうして人の名前が出てくるのかわかりませんでした。
橘香さんは、どういう人なのかと不思議に思いながら歌っておりました。
源平藤橘は、日本の苗字の代表です。
まことにもって、紛らわしい。
「雪山賛歌」は、雪山に慣れた山男の歌ですね。
「シールはずしてパイプの煙」の歌詞は、苦労する登りが終わり、一服して、これからは楽な下りがあることを想起させます。
勿論、スキーのへたな私にとって下りが楽であるはずがありません。
樹間を通り過ぎると、樹のない開けた雪原に出ました。
その雪原は、砂丘のようにうねっていました。
ここでシールを付けたと思います。
シールはたいしたものでした。
楽に登って行けました。
問題は、下りでした。
下って、うねりの底に着いたら、止まらなければなりません。
止まれないのです。転ぶことになります。
誰も踏みしめていない新雪です。
スキーは雪上にあります。
体は、雪に嵌ります。
スキーを中心に、180度回転し、真っ逆さまになった感覚です。
柔らかい新雪ですから、全く痛みなどありません。
ここから、もがいて体を起こすのが一苦労でした。
何度も転びました。そのたびにもがきました。
その時は必死でした。大変疲れました。
しかしながら、今想い返して、私のようなものが、こんな経験を出来たことを感謝したい気分になっております。
激しく転倒して、痛みを感じることもなく、雪に優しく、抱きかかえられるのです。
ゲレンデでスキーをしているだけでは、到底味わえないものでした。
山スキーをなさる方なら、なんとも無いことでしょうが、スキー2度目で、このようなことを体験できたことを、友人Cに感謝しております。
雪に優しく、抱きかかえられることをイメージするだけで、今でも幸せな気分になるのです。
友人Cは、ヒマラヤ山岳隊を組織するために、企業を回って支援してもらおうと計画しておりましたが、山の麓の地域の政情不安とかで、立ち消えになってしまいました。
私に何の力もありませんでしたが、行かせてあげたかったです。
<山小屋に着いてからの話は、続きに書きます>
2007年12月04日
スキー講習 C先輩 その2
実際のスキー講習での記憶は余りありません。
C先輩の記憶も、スキー講習中にはほとんどありません。
それぞれ単独で行動していました。
C先輩、私と行きたかったわけではなく、私は単に数として必要だったようです。
私の推測ですが、スキー講習の勧誘ノルマが、それぞれの部活に割り振られていて、その数合わせのために私がターゲットになっただけのことだったと思います。
そんなことはどうでもいい、来てしまったわけですから、その数日間は、スキーをしなければなりません。
まあ、一種の修行ですな。面白いなどとは、全く思いませんでした。
スキー場は山形蔵王でした。
宿での挨拶だったか、行く前の事前の説明会だったかはわかりませんが、このスキー講習を主催している先生(助教授?)が、自分の末の息子(インストラクターの一人)を紹介するのに、「最後のひとしずく」と盛んに連発していた記憶があります。誰も笑いはしません。
後に、キャバレーの宛名書きのバイトをしていた時、この助教授の名刺と出くわしました。
馬鹿な奴です。遊ぶ時ぐらい大学の肩書きははずせよと、一緒に働いていた奴と笑いました。
スキーをしたことがないのですから、初心者クラスです。
私以上に運動神経の鈍いのがたくさんいますから、まあへたさが目立つこともなく、修行をしていました。
インストラクターは、東京の女子大生で、綺麗な人でした。
綺麗な人が、私に興味を示すはずもありませんので、まあ関係ありません。
中学生用の短いスキーズボンのせいで、足からのぞく素肌を見られるのはちょっと恥ずかしかったですが。
講習のおかげで、ボーゲンだけはどうにかなりました。
ウェデルン?とんでもない。
あとは直滑降だけです。スピードが出たら、止まるには転ぶしかない。
そうそう、こんなことがありました。
スキー場はV字谷の底のほうにあり、その側面の半ばあたりに宿がありました。
宿からスキー場に行くには、側面に水平に穿たれた道を行き、左に折れて、階段を下ってゆかなくてはなりません。
二人がようやく対向できるくらいの狭い道です。
朝、スキー場に行くために、スキーを担いで、歩いていました。
水平な道の向こう側には、私たちが降りるのを待っていてくれたのでしょうか、体育大学のマッチョマンたちが、うようよしていました。
筋肉人間は苦手です。この場から早く消えなくてはなりません。
ちょうど、水平な道から階段を下りるために、90度左に回転した時のことです。
「コツン」
うん、なんだ。スキーが何かに当たった、確かな手ごたえ。
体育大学のマッチョの一人の頭に、スキーの端がぶつかったのです。
「スミマセン」
謝って、何食わぬ顔でさっさと行ってしまおうとしました。
ぶつかったと云っても、痛がるほどではありません。
ただ、筋肉マンたちには、むやみやたらに怒る奴もいるから困るのです。
「アー、キミキミ」
すわー、やられるか。
だから筋肉質の人間は嫌いだ。
しょうがない、振り向いた。
「スキーの持ち方、逆だよ」
ふー。何だ、いい奴ジャン。
「あ、はい」
スキーを持ち替えて、無事に降りていきました。
講習最後の日、ロープウェイで高いところへ連れて行かれ、「何が何でも降りて来い」とのことでした。
急な角度もないゲレンデで、練習しただけですから、なかなか酷です。
上から見下ろすと、すごい急傾斜に見える。
どうしようもなくなったら歩いて降りてもよいと言われていました。
皆がいますから、歩いて降りるのだけは避けたいものです。
ボーゲンでゆっくり下り始める。
まずまずどうにかなっている。
マッチョとの遭遇の時もそうですが、今回は左に折れるところが、私にとって鬼門でした。
急坂を降りてきて、左に折れるあたりが、アイスバーンになっていました。
スピードがついているところで、アイスバーン。
神は俺を見捨てたか。
完全に、制御不能。
こけるしかない。
こけた。
ケツから。
肛門が、ブワと広がる感覚。
あとからジワッとくる痛み。
たまらん。
修行は終わった。
だから、コタツに入って、スキムミルクに砂糖をぶち込んで、飲んでいたほうがよかったのです。
C先輩の記憶も、スキー講習中にはほとんどありません。
それぞれ単独で行動していました。
C先輩、私と行きたかったわけではなく、私は単に数として必要だったようです。
私の推測ですが、スキー講習の勧誘ノルマが、それぞれの部活に割り振られていて、その数合わせのために私がターゲットになっただけのことだったと思います。
そんなことはどうでもいい、来てしまったわけですから、その数日間は、スキーをしなければなりません。
まあ、一種の修行ですな。面白いなどとは、全く思いませんでした。
スキー場は山形蔵王でした。
宿での挨拶だったか、行く前の事前の説明会だったかはわかりませんが、このスキー講習を主催している先生(助教授?)が、自分の末の息子(インストラクターの一人)を紹介するのに、「最後のひとしずく」と盛んに連発していた記憶があります。誰も笑いはしません。
後に、キャバレーの宛名書きのバイトをしていた時、この助教授の名刺と出くわしました。
馬鹿な奴です。遊ぶ時ぐらい大学の肩書きははずせよと、一緒に働いていた奴と笑いました。
スキーをしたことがないのですから、初心者クラスです。
私以上に運動神経の鈍いのがたくさんいますから、まあへたさが目立つこともなく、修行をしていました。
インストラクターは、東京の女子大生で、綺麗な人でした。
綺麗な人が、私に興味を示すはずもありませんので、まあ関係ありません。
中学生用の短いスキーズボンのせいで、足からのぞく素肌を見られるのはちょっと恥ずかしかったですが。
講習のおかげで、ボーゲンだけはどうにかなりました。
ウェデルン?とんでもない。
あとは直滑降だけです。スピードが出たら、止まるには転ぶしかない。
そうそう、こんなことがありました。
スキー場はV字谷の底のほうにあり、その側面の半ばあたりに宿がありました。
宿からスキー場に行くには、側面に水平に穿たれた道を行き、左に折れて、階段を下ってゆかなくてはなりません。
二人がようやく対向できるくらいの狭い道です。
朝、スキー場に行くために、スキーを担いで、歩いていました。
水平な道の向こう側には、私たちが降りるのを待っていてくれたのでしょうか、体育大学のマッチョマンたちが、うようよしていました。
筋肉人間は苦手です。この場から早く消えなくてはなりません。
ちょうど、水平な道から階段を下りるために、90度左に回転した時のことです。
「コツン」
うん、なんだ。スキーが何かに当たった、確かな手ごたえ。
体育大学のマッチョの一人の頭に、スキーの端がぶつかったのです。
「スミマセン」
謝って、何食わぬ顔でさっさと行ってしまおうとしました。
ぶつかったと云っても、痛がるほどではありません。
ただ、筋肉マンたちには、むやみやたらに怒る奴もいるから困るのです。
「アー、キミキミ」
すわー、やられるか。
だから筋肉質の人間は嫌いだ。
しょうがない、振り向いた。
「スキーの持ち方、逆だよ」
ふー。何だ、いい奴ジャン。
「あ、はい」
スキーを持ち替えて、無事に降りていきました。
講習最後の日、ロープウェイで高いところへ連れて行かれ、「何が何でも降りて来い」とのことでした。
急な角度もないゲレンデで、練習しただけですから、なかなか酷です。
上から見下ろすと、すごい急傾斜に見える。
どうしようもなくなったら歩いて降りてもよいと言われていました。
皆がいますから、歩いて降りるのだけは避けたいものです。
ボーゲンでゆっくり下り始める。
まずまずどうにかなっている。
マッチョとの遭遇の時もそうですが、今回は左に折れるところが、私にとって鬼門でした。
急坂を降りてきて、左に折れるあたりが、アイスバーンになっていました。
スピードがついているところで、アイスバーン。
神は俺を見捨てたか。
完全に、制御不能。
こけるしかない。
こけた。
ケツから。
肛門が、ブワと広がる感覚。
あとからジワッとくる痛み。
たまらん。
修行は終わった。
だから、コタツに入って、スキムミルクに砂糖をぶち込んで、飲んでいたほうがよかったのです。
2007年12月01日
スキー講習 C先輩 その1
大学1年の冬だったと思いますが、寮に入って最初に同室だった先輩のCさんに、スキー講習に行こうと誘われました。
C先輩は福島の出身で、「俺は経済学部、イリートだから」が口癖でした。
イリートはエリートのことです。冗談なのか本当に訛っているのかわかりませんでした。
今思い出すと、福島出身の人たちは、個性的で面白い人が多かったように感じます。
以前ブログに書いた、ピンクの水玉模様のパンツ一丁にドテラを羽織り、寮内を走り回っていた先輩も福島出身でした。
福島出身者には、一種独特の愛嬌がありました。
イリートの先輩が、どうしても一緒に行こうというのです。
大学の体育の一環として行われるので、費用も安く、体育の単位が不足した時、考慮してくれるとのことでした。
私は基本的に運動が苦手でした。
高校時代、運動会の行進の練習で、たまたま先頭にさせられました。
背は高いほうでしたので、先頭になるなど、それまでなかったのです。
緊張しましたが、私はまともに行進していました。いえ、しているつもりでした。
教師が何か怒っているのです。
最初は私とは気付きませんでした。
業を煮やしたのでしょう、校庭の演台を降りてきた教師が、私の前に来て指摘しました。
「お前、右手と右足が一緒に出てるぞ」
右手を出した時、左足を出すのは、明治に入ってから始めたことで、洋風の行進の仕方だそうです。
江戸時代の武士は現在のような歩き方はしなかったそうです。
先祖がえりを起こしただけのことです。
そんなもんです。行進でさえこうですから、運動は苦手です。
ただ、大学に入ると、驚いたことには私よりも運動がへたな学生が普通にいて、ひどいのは運動をするには体力が不足していて、基礎体力を作らなければならない連中もいました。
彼らはエリートと呼ばれていました。エリートコースで体操などをやらされていました。
まあそれほどではなくとも、全体のレベルが低かったですから、高校時代のように、自分の運動神経のなさが目立つこともなくなりました。
私には大変住みよいところでした。
とはいえ、自ら進んでスキーをしようなどとは全く考えません。スキーの経験もありません。
冬は何処にも行かずコタツに入り、スキムミルク(脱脂粉乳)に砂糖を入れて飲むのが基本だと思うのですが、先輩やけに強行です。
高価なウエアーなど買えるはずがありません。
そう云って断りましたが、スキーもウエアーも全部先輩が貸してくれるそうです。
先輩の熱心さに「参加する」と言ってしまいました。
大失敗でした。
先輩が福島の実家に帰って、持ってきた装備を見て驚きました。
全て、先輩の中学時代に使用していた装備でした。
先輩、ワンゲル(ワンダーフォーゲル)の部員で、顔は美男に入ると思いますが、がに股で、かつ短足です。
ワンゲルの人たちがこうだと言っているのではありません。先輩の固有の特徴です。
がに股はこの際関係ありません、短足が問題です。さらに中学生の時のウエアーが問題です。
申し上げておきますが、私は決して足の長いほうではありません。短くもありません。
新入生の身体検査で、私と一緒に測定していた級友の背は私より高いのに、座高が私より低いという矛盾した結果が出ていましたので、測定してくれている看護婦さんに、間違いではと訊きましたところ、間違いではないと笑われました。
その級友が異常に足が長かっただけのことで、私は並だと今でも思っています。
問題は、あくまで、先輩の足の短さです。中学生の時のウエアーです。
さて先輩のスキーズボンをはいてみました。
ズボンの先端の中ほどに布の張り出しがあり、土踏まずに引っ掛けるようになっています。
引っ掛けた状態ではくと、私の股から20cmほど下にズボンの股が来るのです。
なんともみすぼらしい姿です。
引っ張ってもあがりません。さあどうする。
仕方ありません、土踏まずの引っ掛けを足からはずしました。
見事、私の股と、ズボンの股が接触しました。
しかしながらまだ問題があります。
当然ですが、ズボンの先は、ふくらはぎのあたりまで上がっています。
先輩の貸してくれた靴下はかなり長いのですが、どうしても肌が露出する部分が出来てしまいます。
どうしよう。
かまわないことにしました。これで勝負です。
私の股とズボンの股に少し隙間を作り、肌の露出をなるべく少なくしました。
私がウエアーを買うことを考えないことを、不思議に思う方もおられるかもしれませんが、全く考えませんでした。
そんな余裕はありません。金をかけるくらいなら、無様で結構だったのです。
私が特別だったわけではなく、時代がそうだったのです。
(実際のスキー講習は続きで)
C先輩は福島の出身で、「俺は経済学部、イリートだから」が口癖でした。
イリートはエリートのことです。冗談なのか本当に訛っているのかわかりませんでした。
今思い出すと、福島出身の人たちは、個性的で面白い人が多かったように感じます。
以前ブログに書いた、ピンクの水玉模様のパンツ一丁にドテラを羽織り、寮内を走り回っていた先輩も福島出身でした。
福島出身者には、一種独特の愛嬌がありました。
イリートの先輩が、どうしても一緒に行こうというのです。
大学の体育の一環として行われるので、費用も安く、体育の単位が不足した時、考慮してくれるとのことでした。
私は基本的に運動が苦手でした。
高校時代、運動会の行進の練習で、たまたま先頭にさせられました。
背は高いほうでしたので、先頭になるなど、それまでなかったのです。
緊張しましたが、私はまともに行進していました。いえ、しているつもりでした。
教師が何か怒っているのです。
最初は私とは気付きませんでした。
業を煮やしたのでしょう、校庭の演台を降りてきた教師が、私の前に来て指摘しました。
「お前、右手と右足が一緒に出てるぞ」
右手を出した時、左足を出すのは、明治に入ってから始めたことで、洋風の行進の仕方だそうです。
江戸時代の武士は現在のような歩き方はしなかったそうです。
先祖がえりを起こしただけのことです。
そんなもんです。行進でさえこうですから、運動は苦手です。
ただ、大学に入ると、驚いたことには私よりも運動がへたな学生が普通にいて、ひどいのは運動をするには体力が不足していて、基礎体力を作らなければならない連中もいました。
彼らはエリートと呼ばれていました。エリートコースで体操などをやらされていました。
まあそれほどではなくとも、全体のレベルが低かったですから、高校時代のように、自分の運動神経のなさが目立つこともなくなりました。
私には大変住みよいところでした。
とはいえ、自ら進んでスキーをしようなどとは全く考えません。スキーの経験もありません。
冬は何処にも行かずコタツに入り、スキムミルク(脱脂粉乳)に砂糖を入れて飲むのが基本だと思うのですが、先輩やけに強行です。
高価なウエアーなど買えるはずがありません。
そう云って断りましたが、スキーもウエアーも全部先輩が貸してくれるそうです。
先輩の熱心さに「参加する」と言ってしまいました。
大失敗でした。
先輩が福島の実家に帰って、持ってきた装備を見て驚きました。
全て、先輩の中学時代に使用していた装備でした。
先輩、ワンゲル(ワンダーフォーゲル)の部員で、顔は美男に入ると思いますが、がに股で、かつ短足です。
ワンゲルの人たちがこうだと言っているのではありません。先輩の固有の特徴です。
がに股はこの際関係ありません、短足が問題です。さらに中学生の時のウエアーが問題です。
申し上げておきますが、私は決して足の長いほうではありません。短くもありません。
新入生の身体検査で、私と一緒に測定していた級友の背は私より高いのに、座高が私より低いという矛盾した結果が出ていましたので、測定してくれている看護婦さんに、間違いではと訊きましたところ、間違いではないと笑われました。
その級友が異常に足が長かっただけのことで、私は並だと今でも思っています。
問題は、あくまで、先輩の足の短さです。中学生の時のウエアーです。
さて先輩のスキーズボンをはいてみました。
ズボンの先端の中ほどに布の張り出しがあり、土踏まずに引っ掛けるようになっています。
引っ掛けた状態ではくと、私の股から20cmほど下にズボンの股が来るのです。
なんともみすぼらしい姿です。
引っ張ってもあがりません。さあどうする。
仕方ありません、土踏まずの引っ掛けを足からはずしました。
見事、私の股と、ズボンの股が接触しました。
しかしながらまだ問題があります。
当然ですが、ズボンの先は、ふくらはぎのあたりまで上がっています。
先輩の貸してくれた靴下はかなり長いのですが、どうしても肌が露出する部分が出来てしまいます。
どうしよう。
かまわないことにしました。これで勝負です。
私の股とズボンの股に少し隙間を作り、肌の露出をなるべく少なくしました。
私がウエアーを買うことを考えないことを、不思議に思う方もおられるかもしれませんが、全く考えませんでした。
そんな余裕はありません。金をかけるくらいなら、無様で結構だったのです。
私が特別だったわけではなく、時代がそうだったのです。
(実際のスキー講習は続きで)