2007年12月

2007年12月22日

深い谷に架かる橋

40年ほど前の話です。


大学の近くに深い谷がありました。

当時、造られて間もない鉄筋の橋が架かっておりました。

かつては、つり橋だったそうです。

橋の上から下を覗くと、恐怖を感じさせるほどの深さです。


つり橋の時代はそうでもなかったのでしょうが、鉄筋になってから自殺者が増え、当時は自殺の名所になってしまっておりました。


統計的にはどうなのか知りませんが、揺れるつり橋の上から自殺しようとは、あまり思わないものかもしれません。

私の想像ですが、自殺をするにも、足場はしっかりしていてほしいのではないでしょうか。

自殺するならどちらでもよさそうなものですが、人の心理とは、不思議なものです。


東京の実家から、父が突然訪ねてきました。

若かったので、親と連れ立って歩きたくはありませんでしたが、遠くからわざわざ来たのですから街を案内しました。

その橋に向かって歩いていた時です。

橋を見て帰ってくる人たちが、上気した様子で、自殺者が出たと教えてくれました。

またかと思いました。その橋での自殺は、当時、日常化していました。


以前は無かったのですが、自殺防止のため、橋の欄干高く、野球場のバックネット状の鉄の網が張ってありました。

着いてみると、その鉄の網に、四角い穴が開けられていました。

穴の前には警官が立っていました。

その穴は、自殺した人が開けたのかと思いました。


近くの人に話を聞くと、そうではありませんでした。

鉄の網をよじ登って自殺しようとした人がいたのです。

ネットの向こう側につかまった状態で怖くなったらしい。

手を離せば落ちることになります。

警察が到着し、ネットを切って四角い穴を開け、そこから救い出しました。

自殺しようとする人を一人、救うことが出来たのです。


自殺者が出たと教えてくれた人の早とちりだったのでしょうか。


いえ、早とちりではありませんでした。


開けた穴はすぐには補修できませんから、開いたままになってしまいました。

ほどなく、その開いた四角い穴から、別の人が飛び込んでしまったのです。


前の人が逡巡せずに、自殺していれば、その人は自殺しなかったかもしれないのです。

間が悪いと云うか、些細な偶然が、生死を決めることもあるのです。


現在、その橋は、よじ登れない構造になっていて、ほとんど自殺はないそうです。

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2007年12月18日

同室者 その2

同室者は栄養失調でした。

それは症状であり、勿論他に原因があります。

そのことについて、医者は私たちには詳しく話してはくれませんでした。


彼はほとんど食事を取っていなかったのです。

寮では、朝食と夕食の賄が付きます。

決められた時間内に、食堂で食べます。


賄い付きの下宿代が、当時15,000円ぐらいでした。

寮は、部屋代、光熱費、食事代の全てを入れて、1ヶ月5,000円ほどで、それも後払いでした。

授業料は申請を出せば、ほぼ100%免除されましたし、企業等の奨学金も楽に取れました。

ある寮生などは、育英会は当然のこと、出身地や、企業など4つの奨学金をもらい、逆に貧しい実家に仕送りをしているぐらいでした。

彼には仕送りもあったようですし、食事代が払えないはずはありません。

経済的理由ではありません。

食事をしていなかった原因は、精神的なものでした。


社研の人から聞いた話です。

彼は関東の大学で、学生運動の闘士でした。

機動隊との衝突で、頭を割られ、それからおかしくなったらしいです。

大学を辞め、私たちの大学を受けなおし、その年に入学してきたのです。

ですから私たちよりもずっと年上でした。


社研の人たちとは、同じ反日共系であってもセクトが違いました。

セクトが違うと警戒しますから、彼らは彼との交流を避けていたのです。

それだけでなく、私が感じたと同様に彼のとらえどころの無さを、彼らも感じていたのだと思います。


とにかく、社研の人たちと分担を決め、付き添うことにしました。

当時は完全看護など無い時代です。誰かが付き添うものでした。


現在私は、母親の介護をしていますが、自分の症状を正直には話してくれません。

辛そうにしているので、大丈夫かと訊くと、大丈夫と答えます。

そんなことを繰り返していたある日、母の顔を見ていて、どうもこれは尋常ではないと感じました。

母を説得し、夜中でしたが、救急車を呼んで病院に行くことにしました。

来てくれた救急隊員に「おなかが痛い」と母が言ったのには驚きました。

私は、一度としてそんなことを聞いたことがなかったのです。

病人は、病院に行くことを嫌いますが、病気を治すには行かなければならないとわかった時、緊張が解けるようです。

こちらが顔を見て判断し、病気を見つけてやらなければならないのだと良くわかりました。


彼も同じでした。

心のどこかで、彼の病に早く気付いてほしかったのだと思います。

私が付き添いした最初の時です。

緊張が解けたのでしょうか、ひと月以上同室にいながら、私は初めて、彼がしゃべるのを聞きました。

平家物語の細かい部分を熱心に私に語るのです。

残念ながら、私にはそれを理解する知識も能力もありませんでした。

それで、「平家物語のことは良くわからない」と言いました。

彼は、「またまたー」と言って、私がはぐらかしていると誤解しているようでした。


彼は大変勉強が出来た人なのでしょう。

そして自分が持っている知識ぐらいは、他人も同様に持っていると信じているようでした。

私にもう少し知識があれば、聞いてあげられたろうにと思います。

残念です。


2度ほど付き添いをしました。

彼の母親がいらして、実家に連れ帰ったそうです。

寮にも寄られましたが、私は出掛けていて会えませんでした。


大学は辞めたと聞きました。

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2007年12月15日

同室者 その1

寮で、たまたま同室になった人の話です。


その寮は、3ヶ月に一度くらい、引越しがあり、部屋割りがそのつど変わりました。

何でこんなにたびたび引越しするのかと不思議でした。

後から理由がわかって、なるほどと思いました。

二十歳近辺の若い男たちだけの集団です。

掃除など、よほどの綺麗好きでない限りするものではありません。

引越しすれば、否応なく、掃除をしなければならないのです。

引越しは、大掃除が主目的でした。


寮は、二人部屋でした。

私たちのサークルには、3人の2年生と、4人の1年生で合計7人いました。

ひとり余ることになります。

サークル内の部屋割りはくじ引きで決め、私が余りました。

運が良いと、二人部屋に一人のこともありましたが、その時は他のサークルと相部屋になってしまいました。

相部屋になったサークルが、社研(社会主義研究会)だったのです。


その人は、同じ1年生でしたが、かなり年上に見えました。

あとでわかりましたが、実際年上でした。

無口で何を考えているのかわからない人でした。

同室でありながら、話をしたことがありませんし、挨拶しても、返してくれませんから、そのうち挨拶もしなくなりました。

他人を寄せ付けないところがありました。

私のところへは、同じサークルの仲間がしばしば訪ねてきましたが、その人のところへは、社研の人たちは誰も訪ねてきませんでした。

彼は、社研の人たちから、疎外されている感がありました。


ひと月以上が過ぎた頃です。

どうも様子がおかしいと思うようになりました。


寮の部屋は6畳くらいで細長く、廊下から入ってすぐ片側に2段ベッド、突き当りの窓際に木製の机が二つ、左右に分かれて置いてありました。

私が2段ベッドの上に寝ていると、下にいるその人がベッドから乗り出し、床に向かってつばを吐いているのです。

「汚いな」と思っておりました。

でもこれは同室になった最初からのことでした。


その頃になると、ほとんど1日中、寝ていることが多くなっていました。

大学に行っている様子もありません。


寮の敷地は広く、木造2階建てで、3棟が平行に並んで建っていました。

棟と棟の間は10m程あり、土のままで、草が生えていました。

友人が来て、話をしていた時のことです。

部屋からふと窓の外を見ると、その人が草の上に座っていました。

なんと、草を食べていたのです。

これはおかしいと思いました。


すぐに、社研サークルの人たちに様子を話し、病院に連れて行ったほうがよいと言いました。

彼らも、今まで放っておいたことに責任を感じたのでしょう、大学病院に連れて行ったそうです。


即日、入院することになりました。

<続きは、また書きます>

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2007年12月12日

記憶について

このブログを書くようになって、何人かの知り合いから、そんな昔のこと良く覚えているなと言われました。

本当に、憶えているのです。

人には、昔のことを、憶えている人と、そうでない人の2種類があるようです。

それは記憶力とは全く関係がないようなのです。


私は暗記することが苦手です。

小学生の頃、先生が社会の授業で、県庁所在地を覚えなさいといわれたとき、呆然としてしまいました。

そんな無理なこと、どう考えても、覚えられるはずがありません。

覚える方法がわからないのです。

ですから、ボーとしていました。

他の生徒はどんどん覚えてゆくのです。

これはなんだろう、他の人に出来て自分に出来ない、自分は馬鹿なのだと思いました。

先生にも、出来の悪い子とみなされていました。


そんな私ですが、勉強以外の、どうでも良いことはよく憶えているのです。

記憶力とは、全く関係ありません。


記憶の変化について、書いてみます。

これから書くことは、私が気付いたことですが、記憶については、研究が進んでいるので、当然わかりきったことのはずです。

自分で気付いたと思いながら、実際は本で読んだことがあるのかもしれません。

無駄話としてお読みください。


私の中で、記憶は画像として、残っております。

その画像は、私の目が見たそのままの画像ではありません。

見たままの画像であれば、私自身が画像の中に写っているはずはありません。

記憶の画像には、私自身が写っています。

全体を俯瞰した画像になっています。


例えば、母親におんぶされていた記憶は、目で見たそのままなら、母親の頭と、外の景色だけが写っているはずです。

しかし、記憶の画像では、自分から離れたちょっと高い位置に目があるかのように、母親におんぶされた自分まで写っているのです。

記憶は、ある時点で、実際に見たものを再構成しているとしか考えられません。


昔のことを良く覚えている友人に、このことを話したら、友人の記憶も同じだと言っていました。

人は睡眠中に、記憶の整理を行っていると聞いたことがあります。

おそらく、その時にでも、目で見た画像は再構成され、より物語性のある画像へと作りかえられているのかもしれません。

幽体離脱は、今見たものが、体の不調等のために、即座に処理されてしまい、記憶の画像に変わるために起こると聞いたことがあります。

確かに、記憶の画像は、昔のことと云う違いはありますが、幽体離脱しています。


やはり、無駄話でした。

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2007年12月10日

山スキー 友人C 友人A その2

夕暮れて、山小屋に着きました。

まず友人Cに注意されたのは、ノブを素手で触らないようにとのことでした。

ノブに触れた皮膚の表面が、瞬時に凍ってノブから手が取れなくなるそうです。

無理に取ろうとすると、手の皮が剥がれてしまうとのことでした。

氷点下何十度の世界ですから、そんなこともあるかと納得しました。

それにしても、こんな極限的な世界に、友人Cは、よくぞわれわれのような素人を連れてきたものです。

無謀な奴です。

その無謀さのゆえに、普通では出来ない体験が出来たのですが。


40年近く前のことですので、私の記憶の画像も飛び飛びになっています。

食事をした記憶は全然ありませんが、酒を呑んでいた記憶があります。

友人Cが山小屋に置いてあった1升ビンに入った酒を取り出してきました。

湯飲みに注ぎ、薪ストーブを囲んで、3人で呑んでいました。

友人Aも私も、酒は苦手ですが、仲間が集まるとアルコールを呑むものですから、少しは呑めるようになっていました。

言わずもがなですが、Cはザルです。


普通の日本酒とは違い、ちょっとへんな味でした。

酒を呑みながら、山小屋のノートをAが読んでいました。

私に、ある部分を指差し、読んでみろとノートを渡しました。

メチルアルコールを水で割って、酒を作ったと云うやばい文が書いてありました。

今呑んだこの1升ビンの酒かと、一瞬色めきたちましたが、どうもへんです。

メチルは毒です。そんなことするはずがありません。

ただし、酒の味はやはり変です。


Cの話では、酒を呑んだあと、湯飲みの、呑み残しをこの1升ビンに集めて置いてあるとのことでした。

皆の唾液も入って再発酵しているのかもしれません。

まあ、問題ありませんね。

疲れていたので、適当に切り上げ、寝たと思います。


山小屋には、壁面に棚状のものが何段か作られ、雑魚寝ができるようになっていました。

薪ストーブの熱は、上昇しますから、寝袋に入り、最上段に寝ていたはずです。

Cを真ん中にして、私が一番奥、Aがはしごの近くに寝ていました。


うとうとした頃です。

外で、「ウオー、ウオー」とうなり声が聞こえます。

私は、トラがいると思いました。

トラのうなり声を知っていたわけでもありませんし、日本に野生のトラがいるはずもありませんが、なぜかそう思ってしまったのです。

とにかく猛獣がうなっている。

Cを起こしました。

彼は、落ち着いています。

「Aがいないから、あいつだろう」と彼。

なるほど、さっきの酒が悪かったのか、Aが外で、吐いていたのです。


次に起こったことにも、驚きました。

私の寝袋の足の辺りに、「ジャー」と水が落ちてきたのです。

ビックリして、Cに「雨漏りだ」と告げました。

かなり大量の水が連続して落ちてきます。

Cが手で探って、「イタチか何かがションベンしたんだろう」

「俺のシュラフに掛かったぞ」

「俺は手で触った」

彼は手を洗いに行くでもなし、平然としています。

どうでもいいことみたいです。

考えてみたら、確かにどうでもいい。

「早く寝ろ」と言うことですね。

顔にかからなかった事に感謝して、寝ることにしました。

Cは、なるほど山に慣れていました。


私の記憶はここで途切れます。

次の日、帰ったはずですが、何も憶えておりません。


とにかく、面白い体験でした。今から思えばです。

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