2007年12月
2007年12月22日
深い谷に架かる橋
40年ほど前の話です。
大学の近くに深い谷がありました。
当時、造られて間もない鉄筋の橋が架かっておりました。
かつては、つり橋だったそうです。
橋の上から下を覗くと、恐怖を感じさせるほどの深さです。
つり橋の時代はそうでもなかったのでしょうが、鉄筋になってから自殺者が増え、当時は自殺の名所になってしまっておりました。
統計的にはどうなのか知りませんが、揺れるつり橋の上から自殺しようとは、あまり思わないものかもしれません。
私の想像ですが、自殺をするにも、足場はしっかりしていてほしいのではないでしょうか。
自殺するならどちらでもよさそうなものですが、人の心理とは、不思議なものです。
東京の実家から、父が突然訪ねてきました。
若かったので、親と連れ立って歩きたくはありませんでしたが、遠くからわざわざ来たのですから街を案内しました。
その橋に向かって歩いていた時です。
橋を見て帰ってくる人たちが、上気した様子で、自殺者が出たと教えてくれました。
またかと思いました。その橋での自殺は、当時、日常化していました。
以前は無かったのですが、自殺防止のため、橋の欄干高く、野球場のバックネット状の鉄の網が張ってありました。
着いてみると、その鉄の網に、四角い穴が開けられていました。
穴の前には警官が立っていました。
その穴は、自殺した人が開けたのかと思いました。
近くの人に話を聞くと、そうではありませんでした。
鉄の網をよじ登って自殺しようとした人がいたのです。
ネットの向こう側につかまった状態で怖くなったらしい。
手を離せば落ちることになります。
警察が到着し、ネットを切って四角い穴を開け、そこから救い出しました。
自殺しようとする人を一人、救うことが出来たのです。
自殺者が出たと教えてくれた人の早とちりだったのでしょうか。
いえ、早とちりではありませんでした。
開けた穴はすぐには補修できませんから、開いたままになってしまいました。
ほどなく、その開いた四角い穴から、別の人が飛び込んでしまったのです。
前の人が逡巡せずに、自殺していれば、その人は自殺しなかったかもしれないのです。
間が悪いと云うか、些細な偶然が、生死を決めることもあるのです。
現在、その橋は、よじ登れない構造になっていて、ほとんど自殺はないそうです。
大学の近くに深い谷がありました。
当時、造られて間もない鉄筋の橋が架かっておりました。
かつては、つり橋だったそうです。
橋の上から下を覗くと、恐怖を感じさせるほどの深さです。
つり橋の時代はそうでもなかったのでしょうが、鉄筋になってから自殺者が増え、当時は自殺の名所になってしまっておりました。
統計的にはどうなのか知りませんが、揺れるつり橋の上から自殺しようとは、あまり思わないものかもしれません。
私の想像ですが、自殺をするにも、足場はしっかりしていてほしいのではないでしょうか。
自殺するならどちらでもよさそうなものですが、人の心理とは、不思議なものです。
東京の実家から、父が突然訪ねてきました。
若かったので、親と連れ立って歩きたくはありませんでしたが、遠くからわざわざ来たのですから街を案内しました。
その橋に向かって歩いていた時です。
橋を見て帰ってくる人たちが、上気した様子で、自殺者が出たと教えてくれました。
またかと思いました。その橋での自殺は、当時、日常化していました。
以前は無かったのですが、自殺防止のため、橋の欄干高く、野球場のバックネット状の鉄の網が張ってありました。
着いてみると、その鉄の網に、四角い穴が開けられていました。
穴の前には警官が立っていました。
その穴は、自殺した人が開けたのかと思いました。
近くの人に話を聞くと、そうではありませんでした。
鉄の網をよじ登って自殺しようとした人がいたのです。
ネットの向こう側につかまった状態で怖くなったらしい。
手を離せば落ちることになります。
警察が到着し、ネットを切って四角い穴を開け、そこから救い出しました。
自殺しようとする人を一人、救うことが出来たのです。
自殺者が出たと教えてくれた人の早とちりだったのでしょうか。
いえ、早とちりではありませんでした。
開けた穴はすぐには補修できませんから、開いたままになってしまいました。
ほどなく、その開いた四角い穴から、別の人が飛び込んでしまったのです。
前の人が逡巡せずに、自殺していれば、その人は自殺しなかったかもしれないのです。
間が悪いと云うか、些細な偶然が、生死を決めることもあるのです。
現在、その橋は、よじ登れない構造になっていて、ほとんど自殺はないそうです。
2007年12月18日
同室者 その2
同室者は栄養失調でした。
それは症状であり、勿論他に原因があります。
そのことについて、医者は私たちには詳しく話してはくれませんでした。
彼はほとんど食事を取っていなかったのです。
寮では、朝食と夕食の賄が付きます。
決められた時間内に、食堂で食べます。
賄い付きの下宿代が、当時15,000円ぐらいでした。
寮は、部屋代、光熱費、食事代の全てを入れて、1ヶ月5,000円ほどで、それも後払いでした。
授業料は申請を出せば、ほぼ100%免除されましたし、企業等の奨学金も楽に取れました。
ある寮生などは、育英会は当然のこと、出身地や、企業など4つの奨学金をもらい、逆に貧しい実家に仕送りをしているぐらいでした。
彼には仕送りもあったようですし、食事代が払えないはずはありません。
経済的理由ではありません。
食事をしていなかった原因は、精神的なものでした。
社研の人から聞いた話です。
彼は関東の大学で、学生運動の闘士でした。
機動隊との衝突で、頭を割られ、それからおかしくなったらしいです。
大学を辞め、私たちの大学を受けなおし、その年に入学してきたのです。
ですから私たちよりもずっと年上でした。
社研の人たちとは、同じ反日共系であってもセクトが違いました。
セクトが違うと警戒しますから、彼らは彼との交流を避けていたのです。
それだけでなく、私が感じたと同様に彼のとらえどころの無さを、彼らも感じていたのだと思います。
とにかく、社研の人たちと分担を決め、付き添うことにしました。
当時は完全看護など無い時代です。誰かが付き添うものでした。
現在私は、母親の介護をしていますが、自分の症状を正直には話してくれません。
辛そうにしているので、大丈夫かと訊くと、大丈夫と答えます。
そんなことを繰り返していたある日、母の顔を見ていて、どうもこれは尋常ではないと感じました。
母を説得し、夜中でしたが、救急車を呼んで病院に行くことにしました。
来てくれた救急隊員に「おなかが痛い」と母が言ったのには驚きました。
私は、一度としてそんなことを聞いたことがなかったのです。
病人は、病院に行くことを嫌いますが、病気を治すには行かなければならないとわかった時、緊張が解けるようです。
こちらが顔を見て判断し、病気を見つけてやらなければならないのだと良くわかりました。
彼も同じでした。
心のどこかで、彼の病に早く気付いてほしかったのだと思います。
私が付き添いした最初の時です。
緊張が解けたのでしょうか、ひと月以上同室にいながら、私は初めて、彼がしゃべるのを聞きました。
平家物語の細かい部分を熱心に私に語るのです。
残念ながら、私にはそれを理解する知識も能力もありませんでした。
それで、「平家物語のことは良くわからない」と言いました。
彼は、「またまたー」と言って、私がはぐらかしていると誤解しているようでした。
彼は大変勉強が出来た人なのでしょう。
そして自分が持っている知識ぐらいは、他人も同様に持っていると信じているようでした。
私にもう少し知識があれば、聞いてあげられたろうにと思います。
残念です。
2度ほど付き添いをしました。
彼の母親がいらして、実家に連れ帰ったそうです。
寮にも寄られましたが、私は出掛けていて会えませんでした。
大学は辞めたと聞きました。
それは症状であり、勿論他に原因があります。
そのことについて、医者は私たちには詳しく話してはくれませんでした。
彼はほとんど食事を取っていなかったのです。
寮では、朝食と夕食の賄が付きます。
決められた時間内に、食堂で食べます。
賄い付きの下宿代が、当時15,000円ぐらいでした。
寮は、部屋代、光熱費、食事代の全てを入れて、1ヶ月5,000円ほどで、それも後払いでした。
授業料は申請を出せば、ほぼ100%免除されましたし、企業等の奨学金も楽に取れました。
ある寮生などは、育英会は当然のこと、出身地や、企業など4つの奨学金をもらい、逆に貧しい実家に仕送りをしているぐらいでした。
彼には仕送りもあったようですし、食事代が払えないはずはありません。
経済的理由ではありません。
食事をしていなかった原因は、精神的なものでした。
社研の人から聞いた話です。
彼は関東の大学で、学生運動の闘士でした。
機動隊との衝突で、頭を割られ、それからおかしくなったらしいです。
大学を辞め、私たちの大学を受けなおし、その年に入学してきたのです。
ですから私たちよりもずっと年上でした。
社研の人たちとは、同じ反日共系であってもセクトが違いました。
セクトが違うと警戒しますから、彼らは彼との交流を避けていたのです。
それだけでなく、私が感じたと同様に彼のとらえどころの無さを、彼らも感じていたのだと思います。
とにかく、社研の人たちと分担を決め、付き添うことにしました。
当時は完全看護など無い時代です。誰かが付き添うものでした。
現在私は、母親の介護をしていますが、自分の症状を正直には話してくれません。
辛そうにしているので、大丈夫かと訊くと、大丈夫と答えます。
そんなことを繰り返していたある日、母の顔を見ていて、どうもこれは尋常ではないと感じました。
母を説得し、夜中でしたが、救急車を呼んで病院に行くことにしました。
来てくれた救急隊員に「おなかが痛い」と母が言ったのには驚きました。
私は、一度としてそんなことを聞いたことがなかったのです。
病人は、病院に行くことを嫌いますが、病気を治すには行かなければならないとわかった時、緊張が解けるようです。
こちらが顔を見て判断し、病気を見つけてやらなければならないのだと良くわかりました。
彼も同じでした。
心のどこかで、彼の病に早く気付いてほしかったのだと思います。
私が付き添いした最初の時です。
緊張が解けたのでしょうか、ひと月以上同室にいながら、私は初めて、彼がしゃべるのを聞きました。
平家物語の細かい部分を熱心に私に語るのです。
残念ながら、私にはそれを理解する知識も能力もありませんでした。
それで、「平家物語のことは良くわからない」と言いました。
彼は、「またまたー」と言って、私がはぐらかしていると誤解しているようでした。
彼は大変勉強が出来た人なのでしょう。
そして自分が持っている知識ぐらいは、他人も同様に持っていると信じているようでした。
私にもう少し知識があれば、聞いてあげられたろうにと思います。
残念です。
2度ほど付き添いをしました。
彼の母親がいらして、実家に連れ帰ったそうです。
寮にも寄られましたが、私は出掛けていて会えませんでした。
大学は辞めたと聞きました。
2007年12月15日
同室者 その1
寮で、たまたま同室になった人の話です。
その寮は、3ヶ月に一度くらい、引越しがあり、部屋割りがそのつど変わりました。
何でこんなにたびたび引越しするのかと不思議でした。
後から理由がわかって、なるほどと思いました。
二十歳近辺の若い男たちだけの集団です。
掃除など、よほどの綺麗好きでない限りするものではありません。
引越しすれば、否応なく、掃除をしなければならないのです。
引越しは、大掃除が主目的でした。
寮は、二人部屋でした。
私たちのサークルには、3人の2年生と、4人の1年生で合計7人いました。
ひとり余ることになります。
サークル内の部屋割りはくじ引きで決め、私が余りました。
運が良いと、二人部屋に一人のこともありましたが、その時は他のサークルと相部屋になってしまいました。
相部屋になったサークルが、社研(社会主義研究会)だったのです。
その人は、同じ1年生でしたが、かなり年上に見えました。
あとでわかりましたが、実際年上でした。
無口で何を考えているのかわからない人でした。
同室でありながら、話をしたことがありませんし、挨拶しても、返してくれませんから、そのうち挨拶もしなくなりました。
他人を寄せ付けないところがありました。
私のところへは、同じサークルの仲間がしばしば訪ねてきましたが、その人のところへは、社研の人たちは誰も訪ねてきませんでした。
彼は、社研の人たちから、疎外されている感がありました。
ひと月以上が過ぎた頃です。
どうも様子がおかしいと思うようになりました。
寮の部屋は6畳くらいで細長く、廊下から入ってすぐ片側に2段ベッド、突き当りの窓際に木製の机が二つ、左右に分かれて置いてありました。
私が2段ベッドの上に寝ていると、下にいるその人がベッドから乗り出し、床に向かってつばを吐いているのです。
「汚いな」と思っておりました。
でもこれは同室になった最初からのことでした。
その頃になると、ほとんど1日中、寝ていることが多くなっていました。
大学に行っている様子もありません。
寮の敷地は広く、木造2階建てで、3棟が平行に並んで建っていました。
棟と棟の間は10m程あり、土のままで、草が生えていました。
友人が来て、話をしていた時のことです。
部屋からふと窓の外を見ると、その人が草の上に座っていました。
なんと、草を食べていたのです。
これはおかしいと思いました。
すぐに、社研サークルの人たちに様子を話し、病院に連れて行ったほうがよいと言いました。
彼らも、今まで放っておいたことに責任を感じたのでしょう、大学病院に連れて行ったそうです。
即日、入院することになりました。
<続きは、また書きます>
その寮は、3ヶ月に一度くらい、引越しがあり、部屋割りがそのつど変わりました。
何でこんなにたびたび引越しするのかと不思議でした。
後から理由がわかって、なるほどと思いました。
二十歳近辺の若い男たちだけの集団です。
掃除など、よほどの綺麗好きでない限りするものではありません。
引越しすれば、否応なく、掃除をしなければならないのです。
引越しは、大掃除が主目的でした。
寮は、二人部屋でした。
私たちのサークルには、3人の2年生と、4人の1年生で合計7人いました。
ひとり余ることになります。
サークル内の部屋割りはくじ引きで決め、私が余りました。
運が良いと、二人部屋に一人のこともありましたが、その時は他のサークルと相部屋になってしまいました。
相部屋になったサークルが、社研(社会主義研究会)だったのです。
その人は、同じ1年生でしたが、かなり年上に見えました。
あとでわかりましたが、実際年上でした。
無口で何を考えているのかわからない人でした。
同室でありながら、話をしたことがありませんし、挨拶しても、返してくれませんから、そのうち挨拶もしなくなりました。
他人を寄せ付けないところがありました。
私のところへは、同じサークルの仲間がしばしば訪ねてきましたが、その人のところへは、社研の人たちは誰も訪ねてきませんでした。
彼は、社研の人たちから、疎外されている感がありました。
ひと月以上が過ぎた頃です。
どうも様子がおかしいと思うようになりました。
寮の部屋は6畳くらいで細長く、廊下から入ってすぐ片側に2段ベッド、突き当りの窓際に木製の机が二つ、左右に分かれて置いてありました。
私が2段ベッドの上に寝ていると、下にいるその人がベッドから乗り出し、床に向かってつばを吐いているのです。
「汚いな」と思っておりました。
でもこれは同室になった最初からのことでした。
その頃になると、ほとんど1日中、寝ていることが多くなっていました。
大学に行っている様子もありません。
寮の敷地は広く、木造2階建てで、3棟が平行に並んで建っていました。
棟と棟の間は10m程あり、土のままで、草が生えていました。
友人が来て、話をしていた時のことです。
部屋からふと窓の外を見ると、その人が草の上に座っていました。
なんと、草を食べていたのです。
これはおかしいと思いました。
すぐに、社研サークルの人たちに様子を話し、病院に連れて行ったほうがよいと言いました。
彼らも、今まで放っておいたことに責任を感じたのでしょう、大学病院に連れて行ったそうです。
即日、入院することになりました。
<続きは、また書きます>
2007年12月12日
記憶について
このブログを書くようになって、何人かの知り合いから、そんな昔のこと良く覚えているなと言われました。
本当に、憶えているのです。
人には、昔のことを、憶えている人と、そうでない人の2種類があるようです。
それは記憶力とは全く関係がないようなのです。
私は暗記することが苦手です。
小学生の頃、先生が社会の授業で、県庁所在地を覚えなさいといわれたとき、呆然としてしまいました。
そんな無理なこと、どう考えても、覚えられるはずがありません。
覚える方法がわからないのです。
ですから、ボーとしていました。
他の生徒はどんどん覚えてゆくのです。
これはなんだろう、他の人に出来て自分に出来ない、自分は馬鹿なのだと思いました。
先生にも、出来の悪い子とみなされていました。
そんな私ですが、勉強以外の、どうでも良いことはよく憶えているのです。
記憶力とは、全く関係ありません。
記憶の変化について、書いてみます。
これから書くことは、私が気付いたことですが、記憶については、研究が進んでいるので、当然わかりきったことのはずです。
自分で気付いたと思いながら、実際は本で読んだことがあるのかもしれません。
無駄話としてお読みください。
私の中で、記憶は画像として、残っております。
その画像は、私の目が見たそのままの画像ではありません。
見たままの画像であれば、私自身が画像の中に写っているはずはありません。
記憶の画像には、私自身が写っています。
全体を俯瞰した画像になっています。
例えば、母親におんぶされていた記憶は、目で見たそのままなら、母親の頭と、外の景色だけが写っているはずです。
しかし、記憶の画像では、自分から離れたちょっと高い位置に目があるかのように、母親におんぶされた自分まで写っているのです。
記憶は、ある時点で、実際に見たものを再構成しているとしか考えられません。
昔のことを良く覚えている友人に、このことを話したら、友人の記憶も同じだと言っていました。
人は睡眠中に、記憶の整理を行っていると聞いたことがあります。
おそらく、その時にでも、目で見た画像は再構成され、より物語性のある画像へと作りかえられているのかもしれません。
幽体離脱は、今見たものが、体の不調等のために、即座に処理されてしまい、記憶の画像に変わるために起こると聞いたことがあります。
確かに、記憶の画像は、昔のことと云う違いはありますが、幽体離脱しています。
やはり、無駄話でした。
本当に、憶えているのです。
人には、昔のことを、憶えている人と、そうでない人の2種類があるようです。
それは記憶力とは全く関係がないようなのです。
私は暗記することが苦手です。
小学生の頃、先生が社会の授業で、県庁所在地を覚えなさいといわれたとき、呆然としてしまいました。
そんな無理なこと、どう考えても、覚えられるはずがありません。
覚える方法がわからないのです。
ですから、ボーとしていました。
他の生徒はどんどん覚えてゆくのです。
これはなんだろう、他の人に出来て自分に出来ない、自分は馬鹿なのだと思いました。
先生にも、出来の悪い子とみなされていました。
そんな私ですが、勉強以外の、どうでも良いことはよく憶えているのです。
記憶力とは、全く関係ありません。
記憶の変化について、書いてみます。
これから書くことは、私が気付いたことですが、記憶については、研究が進んでいるので、当然わかりきったことのはずです。
自分で気付いたと思いながら、実際は本で読んだことがあるのかもしれません。
無駄話としてお読みください。
私の中で、記憶は画像として、残っております。
その画像は、私の目が見たそのままの画像ではありません。
見たままの画像であれば、私自身が画像の中に写っているはずはありません。
記憶の画像には、私自身が写っています。
全体を俯瞰した画像になっています。
例えば、母親におんぶされていた記憶は、目で見たそのままなら、母親の頭と、外の景色だけが写っているはずです。
しかし、記憶の画像では、自分から離れたちょっと高い位置に目があるかのように、母親におんぶされた自分まで写っているのです。
記憶は、ある時点で、実際に見たものを再構成しているとしか考えられません。
昔のことを良く覚えている友人に、このことを話したら、友人の記憶も同じだと言っていました。
人は睡眠中に、記憶の整理を行っていると聞いたことがあります。
おそらく、その時にでも、目で見た画像は再構成され、より物語性のある画像へと作りかえられているのかもしれません。
幽体離脱は、今見たものが、体の不調等のために、即座に処理されてしまい、記憶の画像に変わるために起こると聞いたことがあります。
確かに、記憶の画像は、昔のことと云う違いはありますが、幽体離脱しています。
やはり、無駄話でした。
2007年12月10日
山スキー 友人C 友人A その2
夕暮れて、山小屋に着きました。
まず友人Cに注意されたのは、ノブを素手で触らないようにとのことでした。
ノブに触れた皮膚の表面が、瞬時に凍ってノブから手が取れなくなるそうです。
無理に取ろうとすると、手の皮が剥がれてしまうとのことでした。
氷点下何十度の世界ですから、そんなこともあるかと納得しました。
それにしても、こんな極限的な世界に、友人Cは、よくぞわれわれのような素人を連れてきたものです。
無謀な奴です。
その無謀さのゆえに、普通では出来ない体験が出来たのですが。
40年近く前のことですので、私の記憶の画像も飛び飛びになっています。
食事をした記憶は全然ありませんが、酒を呑んでいた記憶があります。
友人Cが山小屋に置いてあった1升ビンに入った酒を取り出してきました。
湯飲みに注ぎ、薪ストーブを囲んで、3人で呑んでいました。
友人Aも私も、酒は苦手ですが、仲間が集まるとアルコールを呑むものですから、少しは呑めるようになっていました。
言わずもがなですが、Cはザルです。
普通の日本酒とは違い、ちょっとへんな味でした。
酒を呑みながら、山小屋のノートをAが読んでいました。
私に、ある部分を指差し、読んでみろとノートを渡しました。
メチルアルコールを水で割って、酒を作ったと云うやばい文が書いてありました。
今呑んだこの1升ビンの酒かと、一瞬色めきたちましたが、どうもへんです。
メチルは毒です。そんなことするはずがありません。
ただし、酒の味はやはり変です。
Cの話では、酒を呑んだあと、湯飲みの、呑み残しをこの1升ビンに集めて置いてあるとのことでした。
皆の唾液も入って再発酵しているのかもしれません。
まあ、問題ありませんね。
疲れていたので、適当に切り上げ、寝たと思います。
山小屋には、壁面に棚状のものが何段か作られ、雑魚寝ができるようになっていました。
薪ストーブの熱は、上昇しますから、寝袋に入り、最上段に寝ていたはずです。
Cを真ん中にして、私が一番奥、Aがはしごの近くに寝ていました。
うとうとした頃です。
外で、「ウオー、ウオー」とうなり声が聞こえます。
私は、トラがいると思いました。
トラのうなり声を知っていたわけでもありませんし、日本に野生のトラがいるはずもありませんが、なぜかそう思ってしまったのです。
とにかく猛獣がうなっている。
Cを起こしました。
彼は、落ち着いています。
「Aがいないから、あいつだろう」と彼。
なるほど、さっきの酒が悪かったのか、Aが外で、吐いていたのです。
次に起こったことにも、驚きました。
私の寝袋の足の辺りに、「ジャー」と水が落ちてきたのです。
ビックリして、Cに「雨漏りだ」と告げました。
かなり大量の水が連続して落ちてきます。
Cが手で探って、「イタチか何かがションベンしたんだろう」
「俺のシュラフに掛かったぞ」
「俺は手で触った」
彼は手を洗いに行くでもなし、平然としています。
どうでもいいことみたいです。
考えてみたら、確かにどうでもいい。
「早く寝ろ」と言うことですね。
顔にかからなかった事に感謝して、寝ることにしました。
Cは、なるほど山に慣れていました。
私の記憶はここで途切れます。
次の日、帰ったはずですが、何も憶えておりません。
とにかく、面白い体験でした。今から思えばです。
まず友人Cに注意されたのは、ノブを素手で触らないようにとのことでした。
ノブに触れた皮膚の表面が、瞬時に凍ってノブから手が取れなくなるそうです。
無理に取ろうとすると、手の皮が剥がれてしまうとのことでした。
氷点下何十度の世界ですから、そんなこともあるかと納得しました。
それにしても、こんな極限的な世界に、友人Cは、よくぞわれわれのような素人を連れてきたものです。
無謀な奴です。
その無謀さのゆえに、普通では出来ない体験が出来たのですが。
40年近く前のことですので、私の記憶の画像も飛び飛びになっています。
食事をした記憶は全然ありませんが、酒を呑んでいた記憶があります。
友人Cが山小屋に置いてあった1升ビンに入った酒を取り出してきました。
湯飲みに注ぎ、薪ストーブを囲んで、3人で呑んでいました。
友人Aも私も、酒は苦手ですが、仲間が集まるとアルコールを呑むものですから、少しは呑めるようになっていました。
言わずもがなですが、Cはザルです。
普通の日本酒とは違い、ちょっとへんな味でした。
酒を呑みながら、山小屋のノートをAが読んでいました。
私に、ある部分を指差し、読んでみろとノートを渡しました。
メチルアルコールを水で割って、酒を作ったと云うやばい文が書いてありました。
今呑んだこの1升ビンの酒かと、一瞬色めきたちましたが、どうもへんです。
メチルは毒です。そんなことするはずがありません。
ただし、酒の味はやはり変です。
Cの話では、酒を呑んだあと、湯飲みの、呑み残しをこの1升ビンに集めて置いてあるとのことでした。
皆の唾液も入って再発酵しているのかもしれません。
まあ、問題ありませんね。
疲れていたので、適当に切り上げ、寝たと思います。
山小屋には、壁面に棚状のものが何段か作られ、雑魚寝ができるようになっていました。
薪ストーブの熱は、上昇しますから、寝袋に入り、最上段に寝ていたはずです。
Cを真ん中にして、私が一番奥、Aがはしごの近くに寝ていました。
うとうとした頃です。
外で、「ウオー、ウオー」とうなり声が聞こえます。
私は、トラがいると思いました。
トラのうなり声を知っていたわけでもありませんし、日本に野生のトラがいるはずもありませんが、なぜかそう思ってしまったのです。
とにかく猛獣がうなっている。
Cを起こしました。
彼は、落ち着いています。
「Aがいないから、あいつだろう」と彼。
なるほど、さっきの酒が悪かったのか、Aが外で、吐いていたのです。
次に起こったことにも、驚きました。
私の寝袋の足の辺りに、「ジャー」と水が落ちてきたのです。
ビックリして、Cに「雨漏りだ」と告げました。
かなり大量の水が連続して落ちてきます。
Cが手で探って、「イタチか何かがションベンしたんだろう」
「俺のシュラフに掛かったぞ」
「俺は手で触った」
彼は手を洗いに行くでもなし、平然としています。
どうでもいいことみたいです。
考えてみたら、確かにどうでもいい。
「早く寝ろ」と言うことですね。
顔にかからなかった事に感謝して、寝ることにしました。
Cは、なるほど山に慣れていました。
私の記憶はここで途切れます。
次の日、帰ったはずですが、何も憶えておりません。
とにかく、面白い体験でした。今から思えばです。