2007年10月

2007年10月31日

先輩 Bさん

Bさんは寮の同じサークルの先輩でした。

私が寮を出た後、屋根裏部屋のような所に間借りしていた時、Bさんも襖1枚隔てた隣の部屋にあとから間借りしました。

出入りは、私の部屋を通らないと出来ません。

私は一人でいる時間が確保できないと、耐えられないほうでしたので、寮のようにいつも私の部屋に入り浸られるといやだなと思っておりましたが、わかってくれていたのでしょうか、それとも、もともと先輩も同じような性格だったのでしょうか、互いに干渉することのない静かな生活を送ることが出来ました。


道路計画のため、立ち退くことになり、同居生活も終わりを告げました。

それぞれに引越しをして、半年ほどしたある日、大学へ行くために道を急いでいました。

小さくクラクションが鳴って、私の名前を誰かが呼んでいます。

車を見ると、運転席にB先輩が座っていました。

車は、ポンコツのスバル360です。フォルクスワーゲンのカブトムシに似た軽自動車でした。


「どうしたんですか」

「買ったんだ」、ニコニコしています。

車を持っている学生など、皆無に近かった時代ですから、誇らしい気分だったのです。

5万円とか言っていました。

「送ってやるから、乗れよ」

短い距離でしたが、授業のある教養部まで送ってもらいました。

外側はオンボロにもかかわらず、エンジンは調子よく、乗り心地も良かったです。


以前にも書きましたが、教養部の教室は進駐軍の木造兵舎を利用していました。ひとつの兵舎に一つか二つの教室がありました。兵舎はたくさん建っていました。

教室を変わる時には、外に出て、他の兵舎に行くことになります。

他のクラスの授業があって、待たなければならない時には、三々五々外で待ちます。

車は、同じクラスの連中が、教室が空くのを待っているその場所まで入って行きました。

車が入って行くことなど、ほとんどない所でしたので、みんなビックリした目で見ていました。

さらに私が助手席に乗っているのですから「何じゃコリャ」です。

顔の関係でしょうか、女にじっと見つめられるなどない私でしたので、数少ない(100人中6人)同級生の女子に見つめられて、恥ずかしさ半分、気分のよさ半分でした。

先輩は大変気分が良かったはずです。


これ以降、何度か車に乗せてもらえるはずでした。ドライブなんかしゃれています。

ところが・・・・・。


数週間たって、次にB先輩に会った時、彼は歩いていました。

「車、どうしました」

「ああ、聞いてくれよ」

聞きますよ、面白そうだ。


笑いながら、車を手放さなければならなかった理由を語ってくれました。

先輩、くよくよしない良い性格の人です。


先輩は工学部3年でした。

工学部は山の上にあります。

広い一般道路の両側に、学科ごとの棟が建っています。

道路は尾根道ですので、アップダウンがあります。

私を乗せた2,3日後、事件はその道路で起こりました。


先輩、工学部に車で行ったのです。

友人が乗らしてみてくれと頼んだのだそうです。

一般道路ですが、大学関係者以外の車が通ることはほとんどありません。

たぶん、無免許でしょうね。


何百メートルかの短い距離を走る予定でした。

坂道を勇躍と登っていきました。

工学部の建物が無くなるあたりでUターンして、帰って来ました。

先輩が待っているところに帰ってくるには、もう一度Uターンしなければなりません。

下り坂です。遠心力と云うものが働きます。


「Uターンしようとした時だよ、俺の見ている目の前で、コロコロと転がってやがんの」

「オシャカですか」

「うん、オシャカだ、そいつ全然怪我しねえんでやんの」

先輩、楽しそうに笑っています。


確かに、目の前で、自分の車がコロコロと転がってゆくさまは、そう見られるものではありませんね。
怪我もなかったし、笑うしかありません。

かくして、先輩のマイカーオーナーの夢は、1週間と、もたなかったのでした。

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2007年10月27日

先輩 Aさん

先輩のAさんは、私が寮に入った時、すでに教養3年目だったことが後になって分かりました。

私たちの大学は、教養課程2年、専門課程2年制でした。

教養も、専門も、それぞれ4年間で必要単位を取得しなければ、放校になります。

同級生の中には、大学1年当時から「こんな良いところはない、俺は8年間大学にいるつもりだ」と言って、実際に8年間在籍して、卒業した剛の者も居りました。


先輩のAさんは、私が教養の最後の試験を受けていた時、ちょうどタイムリミットの4年目にあたっていました。

Aさん、高校時代は北海道の有名校に通い、その有名校でも秀才と言われるぐらい優秀であったと、他の先輩から何度も聞かされました。

私のような凡才とは違い、余裕で現役合格したそうです。


寮でマージャンをおぼえ、どっぷり浸かってしまったのです。

私も専門に行ってから、同じような経験をしましたので、良くわかりますが、一度タガが緩むと、再度締め直すのは至難の業です。


Aさんは、私と同じ理学部でした。

同じ試験を受けることになります。

試験の1週間前ぐらいに、ノートを貸してくれるように頼まれました。

それぐらい、お安い御用ですので、「頑張ってください」との言葉を添えて、お貸ししました。


試験も終わり、街で、Aさんに出会いました。

「どうでしたか、うまくいきましたか?」とたずねました。

先輩、ニコニコしながら、「ウン、大丈夫だと思うよ」と答えてくれました。

お互い急いでいましたので、それだけでしたが、本当に良かったと思いました。


それから何週間か経ち、試験の結果も出て、どうにか教養課程を修了出来ることが分かったころ、街で会った他の先輩と、パチンコをしていました。

ふと、A先輩のことが気になり、「Aさん、大丈夫だったですか」と聞いてみました。



「ああ、あいつか、もう北海道に帰ったよ」

「だめだったんですか。ノート貸してあげたのに」



「試験受けていなかったんだからどうしようもないよ」

「え?」 パチンコをする手が止まってしまいました。



うまく行ったかのこちらの問いかけに、答えてくれた時の笑顔が忘れられません。

私などに、会いたくなかったろうに。

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2007年10月23日

先輩たち

大学の寮に入ったときのことです。

寮生が200名以上の大きな自治寮でした。

大きな寮のため、10人程度のユニットに分けられ、そのユニットがひとつの家族の役割を果たしていました。

そのユニットは、サークルと呼ばれていたと思います。

違うかもしれませんが、ここはそれで押し通します。


入寮してまずはどのサークルに入るかを決めなければなりません。

小冊子に、それぞれのサークルに勧誘する紹介文が載っていました。

なかなか魅力的な文がありました。


夜来香(イエライシャン)というサークルは、魯迅先生が創設したサークルで、中国研究では並ぶものがないと書いてありました。

由緒正しいサークルなのだと思いました。

他に、名前は忘れましたが、日夜、「鋼体の落下と、その障害物の研究」に勤しんでいる、物理学を探求するサークルもありました。

アカデミックな雰囲気に圧倒されそうです。

大変魅力を感じましたが、私にはあまりにも敷居が高く、ごく平凡な生活の送れそうな「フロンティア」という普通のサークルに入りました。


部屋割りが決まり、先輩たちとの顔合わせとなりました。

挨拶も終わり、雑談しているとき、先輩の一人が、冊子を読んで、他に魅力を感じたサークルはあったかと訊ねました。

思ったとおり、2つのサークルの名前を挙げ、「すごいサークルがあるんですね」と言いました。

先輩は落ち着いて、内実を話してくれました。


「魯迅が留学していたのは戦前だ。この寮は戦後に出来た。分かるだろう」

「じゃあ、中国研究というのは」

「奴らはマージャンが大好きなんだ」


なんだか哀しくなってきた。



「鋼体の落下とその障害物の研究」は?


これも危なさそうだ。


「鋼体と云うのは、小さな鉄のボールだな。それが釘と言う障害物に、弾かれる」

「はあ」

だんだん自分が、馬鹿顔になっていくのが分かる。

「途中の穴に入れば、小さな勝利、一番下の穴まで行けば負け、どれだけ多く途中の穴に入れることが出来るかを研究しているんだ」


「パチンコですか?」

「正解」


私は、実情を知らない初心(うぶ)でした。

これで、アカデミックな寮に対する期待は、消し飛びました。

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2007年10月20日

友人列伝 A

40年ほど前のことです。

友人Aと遅い昼食を食べに行きました。

普通の食堂の約半額で食べられる、安い飯屋です。

その店は繁華街の裏道にあり、10坪もない小さなスペースでした。

どんぶり飯、味噌汁、おしんこ、様々なおかず、それぞれに価格設定があり、おしんこやおかずは発泡スチロールの小さな容器に載っています。

客は食べたいものだけを選び、金のないときはおかずを減らして食べられました。

どんぶり飯と味噌汁、おかず2,3品を食べても80円ぐらいでした。

飯と味噌汁は誰もが食べるものですから、安く設定され、飯20円、味噌汁10円ほどだったと思います。

貧乏学生には、大変助かる店でした。


その日は遅い時間だったせいか、すいていてすぐ食べられました。

飯と味噌汁、おかず2,3品を選び、食べていました。

店の奥では賄をしている人たちもいたのでしょうが、食べる所には客と対応する御姉ちゃんが一人いました。なかなか元気が良いネエチャンでした。

そのネエチャンが、客に文句を言っています。

「うちは、飯と味噌汁だけでは商売にならないんだ、おかずも食っとくれ」

言われている相手は、労務者風のもう爺さんと云ってもよい人でした。

爺さん、相手の言葉は無視して、黙って食べています。

ネエチャン、さらになんだかんだと、文句を言っています。

爺さん、飯と味噌汁だけは、今日初めてではなく、よくやっているらしい。

ただ黙々と食べている。

金がないんだ。


そばで食べているこちらは、なんともつらい気分になって、まずい食事になってしまいました。

食べ終わるとすぐ店を出ました。いたたまれない気分でした。


店を出てすぐ、友人に話しかけました。

「あの女、すげえな、商売はわかるけど、言い方があるだろ、気分が悪かった、飯を食った気がしねえよ」

友人は、まじめな奴ですが、時々変化球を投げてきて、こちらをびっくりさせます。

このときは、当然同意の言葉が返ってくるものと、気を許していました。

「俺、ああいう女が好きなんだ」

ガーン!!

変化球が曲がりすぎて、頭に当たった。

ウーンそうか、そう云う好みもあるんだ。

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2007年10月14日

自己紹介 その2

そう、40年も前の、大学に入って間もない頃のことです。

私の通っていた大学の教養部は、進駐軍が撤退した跡の敷地建物をそのまま利用していました。

進駐軍はひとつの町を作っていましたから、チャペルもあれば診療所もありました。

兵舎が教室です。全てが木造でした。


歯の治療のため、診療所に行きました。

歯学部の歯科医師と看護婦さんが、指定の日に来られて、学生の治療にあたっていました。

只みたいな治療費でしたから、貧乏学生には助かりました。


さて、簡単な治療も終わり、「口をすすいで」と言われました。

うん? いかんぞー。

治療中は大きく口を開けさせられます。

開けたものは閉じなければなりません。

閉じないのです。

骨のちょうつがいに引っ掛かりがあるようです。

こちらは何も出来ません。大きく口を開けて、医師が気付いてくれるのを待つのみです。

なんせ、何もしゃべれないのですから。


しばらくして、ようやく気付いたらしく、「おお、外れたか」と、こともなげに医師。

看護婦さん、無節操に大口開けてげらげら笑っています。

お前も外れろ。

こっちは、それどころではないのだ。


医師が、あごに手をあてがい、カキッと嵌めてくれました。

慣れたものです。外す奴、多いのかも。

それにしては、看護婦のゲラがおかしい。珍しいのかも。

まあ、どっちでもいい。治ったのだから。

話はこれで終わるはずでした。


たぶん、森鴎外が書いていたと思うのですが、他の人が鴎外のことを書いていたのかもしれません。

私の記憶はおぼろげで、あまり信用しないでください。


江戸時代、外れたあごを治す専門家がいたそうです。

医者では治せなかったらしい。

治療法は勿論秘伝です。何せ、これで食っているのですから。

鴎外は医者でした。西洋医学の知識を持っていました。

鴎外の父親は漢方医だったと思います。

あごの外れた患者が、病院にやってきます。

通常はここから、あご治療の専門家に連れて行くのかもしれません。


父親が「どうする」と、鴎外に訊きます。

鴎外は、あごの骨の構造がこうこうこうだからと云って、簡単に治してしまう。

父親が、「西洋医学は大したものだな」と感心するという話だったと思います。

遠い昔に読んだものですから、適当です。違っているかもしれません。


西洋医学は大したもののはずです。

あの診療所の歯科医も、ちゃんと治してくれました。

ところが・・・・・


診療所であごが外れて以来、あくびでもしようものなら、ちょうつがいがカクカクして、また閉じられなくなる恐怖と戦わなければなりませんでした。

一度あごが外れたら、外れやすくなると聞いたことがあります。

もうこんなものだと、外れないように一生、気をつけて暮らす覚悟でいました。

歯医者に行ったときは、「あごが外れる可能性があるので、大きく口が開けられない」と最初に断って治療してもらいました。


大学の診療所であごが外れてから十数年が経っていました。

仕事を持ち、アパートで一人暮らしをしていました。

寒い日の夜、バイクで仕事から帰ってきました。

家に着いて、気が緩んだのでしょうか、意識することもなく、あくびが出ました。

あれ?

やっちゃいました。

開いたっきり、閉じないのです、口が。

あごがガッキと固まっています。

さあどうする。

家には自分以外誰もいません。

話が出来ないのですから、電話も出来ません。

ただ口を開けたまま、部屋の中を歩き回っていました。

じっとしている気にはなりませんでした。

10分も経ったころ、恥ずかしいですが、事情を紙に書いて、隣の人に救急車を呼んでもらうしかないと思い始めていました。


そのときです。

ガキッと自分にだけに聞こえる音が、頭の中でしたかと思うと、口が閉じました。

あごが嵌ってくれたのです。

よかったー。


それだけではありませんでした。

そのとき以降、口を開けても、あごが外れる恐怖がなくなりました。

すなわち、十数年の間、正しい位置にあごが嵌っていなかったと云うことです。

いやな思いはしましたが、あくびをして、十数年ぶりに完治しました。

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