2007年04月
2007年04月25日
ガラード
20年ほど前のことです。
私は一時期、Garrard 301を5台、401を1台持っておりました。
今から考えると何のためにと思いますが、馬鹿だったのです。
全部を使うはずもありません。
301を購入したとき、フローティング機構付オリジナルの台座をおまけに付けてくれました。
おまけに付けるぐらいですから、日本では人気がありませんでした。
日本では、積層板を積み重ねた重たい台座が使われていました。
重厚で、内部および外部の振動も吸収遮断してくれそうです。
当然、私もその重たい台座を購入しました。
英国製のものは見ただけで使う気になりませんでした。
見た目でその音を想像しました。英国製は失格でした。
初めて英国人と取引したときのことです。
フローティング機構を持ったケースにヘッドシェル固定型SME3009が付属したガラード401のターンテーブルを購入いたしました。
届いたのを見て、はじめのうちだまされたと思いました。あまりにも汚いのです。
よくこんな汚いものを売ってくれたなと、気分が悪かったです。
私は日本人ですから磨き上げました。
当時の私は綺麗にすることを最優先にしておりました。
それに何の疑問も抱きませんでした。
ケースの板の厚みも7,8mmでちゃちなものでした。
こんなものでいい音が出るはずはないと思いました。
全てそろっておりましたので、ShureのType靴鯢佞韻董⊆尊櫃硫擦鯆阿い討澆泙靴拭
聴いて驚きました。
積層板を積み重ねた重たい台座では到底聴くことのできない良い音が出てきたのです。
よく見ると、軸には注油され、しっかりとメンテのあとがありました。
出来るだけ良い音で聴いてほしいという、売り手の心遣いを感じました。
私が騙されたと思った売り手は、英国では良心的な売り手なのです。
私が間違っていたと思いました。
つまり、英国人は目的(良い音)を最優先に考えているのです。
目的外(見た目の美しさ、重厚さ)は二の次です。
汚れているからといって文句を言う英国人はいないのです。
目的が満たされていないと文句を言うのです。
見た目がちゃちだからといって、悪い音を連想しないのです。
そうでなければ、おもちゃのような、DeccaのMK1アームなど売れるはずがありません。
このことは英国人に限りません。アメリカでも同様です。
中古だったら汚れていて当然です。
綺麗にしたいなら、購入した人が磨けばいいと考えています。
それに対してわれわれは目的外の綺麗さ、あるいは重厚さを第一としているきらいがあります。
ちょっとしたカルチャーショックを受けました。
綺麗好きであり、美しいものに敏感であることは、ひとつの美点であると思いますが、ことオーディオに関しては、それが仇になっていると思っております。
見た目で良い音が出るはずだと思ったり、これはだめだと判断してしまうのです。
昔、積層板で固められた台座と、フローティング機構のケースを見たとき、積層板を選びました。
ガラード301を購入したとき、おまけに付けてくれたオリジナルのフローティング機構つきの台座など、見向きもしませんでした。
おまけにつけるぐらいですから、日本全体がそう思っていたのです。
オーディオ店では積層に鉄板を貼り付けたものを薦められました。
自分に最適のボードが手元にあるにもかかわらず、見た目で判断したために、自分には適さないボードをわざわざ購入したことになります。
今から思えば馬鹿な話です。
日本人の綺麗好きは深く文化に根ざしたものだそうです。
オーディオに関して、私が日本人の行過ぎた綺麗好き、見た目好きに批判的でありたいと思うのは、まさに自戒の念から発しています。
見た目ではなく、まず音を聴かなければならないと、今は思っております。
見た目が重厚だからといって、決して自分の好きな音が出るとは限りません。
オーディオは重さで決まるわけでもありません。
私は一時期、Garrard 301を5台、401を1台持っておりました。
今から考えると何のためにと思いますが、馬鹿だったのです。
全部を使うはずもありません。
301を購入したとき、フローティング機構付オリジナルの台座をおまけに付けてくれました。
おまけに付けるぐらいですから、日本では人気がありませんでした。
日本では、積層板を積み重ねた重たい台座が使われていました。
重厚で、内部および外部の振動も吸収遮断してくれそうです。
当然、私もその重たい台座を購入しました。
英国製のものは見ただけで使う気になりませんでした。
見た目でその音を想像しました。英国製は失格でした。
初めて英国人と取引したときのことです。
フローティング機構を持ったケースにヘッドシェル固定型SME3009が付属したガラード401のターンテーブルを購入いたしました。
届いたのを見て、はじめのうちだまされたと思いました。あまりにも汚いのです。
よくこんな汚いものを売ってくれたなと、気分が悪かったです。
私は日本人ですから磨き上げました。
当時の私は綺麗にすることを最優先にしておりました。
それに何の疑問も抱きませんでした。
ケースの板の厚みも7,8mmでちゃちなものでした。
こんなものでいい音が出るはずはないと思いました。
全てそろっておりましたので、ShureのType靴鯢佞韻董⊆尊櫃硫擦鯆阿い討澆泙靴拭
聴いて驚きました。
積層板を積み重ねた重たい台座では到底聴くことのできない良い音が出てきたのです。
よく見ると、軸には注油され、しっかりとメンテのあとがありました。
出来るだけ良い音で聴いてほしいという、売り手の心遣いを感じました。
私が騙されたと思った売り手は、英国では良心的な売り手なのです。
私が間違っていたと思いました。
つまり、英国人は目的(良い音)を最優先に考えているのです。
目的外(見た目の美しさ、重厚さ)は二の次です。
汚れているからといって文句を言う英国人はいないのです。
目的が満たされていないと文句を言うのです。
見た目がちゃちだからといって、悪い音を連想しないのです。
そうでなければ、おもちゃのような、DeccaのMK1アームなど売れるはずがありません。
このことは英国人に限りません。アメリカでも同様です。
中古だったら汚れていて当然です。
綺麗にしたいなら、購入した人が磨けばいいと考えています。
それに対してわれわれは目的外の綺麗さ、あるいは重厚さを第一としているきらいがあります。
ちょっとしたカルチャーショックを受けました。
綺麗好きであり、美しいものに敏感であることは、ひとつの美点であると思いますが、ことオーディオに関しては、それが仇になっていると思っております。
見た目で良い音が出るはずだと思ったり、これはだめだと判断してしまうのです。
昔、積層板で固められた台座と、フローティング機構のケースを見たとき、積層板を選びました。
ガラード301を購入したとき、おまけに付けてくれたオリジナルのフローティング機構つきの台座など、見向きもしませんでした。
おまけにつけるぐらいですから、日本全体がそう思っていたのです。
オーディオ店では積層に鉄板を貼り付けたものを薦められました。
自分に最適のボードが手元にあるにもかかわらず、見た目で判断したために、自分には適さないボードをわざわざ購入したことになります。
今から思えば馬鹿な話です。
日本人の綺麗好きは深く文化に根ざしたものだそうです。
オーディオに関して、私が日本人の行過ぎた綺麗好き、見た目好きに批判的でありたいと思うのは、まさに自戒の念から発しています。
見た目ではなく、まず音を聴かなければならないと、今は思っております。
見た目が重厚だからといって、決して自分の好きな音が出るとは限りません。
オーディオは重さで決まるわけでもありません。
2007年04月18日
自己紹介
昔の話です。
中国の文化大革命当時の自伝的小説、「ワイルドスワン」の下巻を読み終わって、いい本だなと思っていたある夜のことです。
友人から晩飯を食いに来ないかとお誘いがかかりました。
喜んで、「行くよ」と答えました。
車で40分くらいのところに友人は住んでいました。
良い小説だから貸してやろうと思って、その本を持って行きました。
ゆっくりしたころ、本を取り出し、貸そうとしました。
「いい本だから読んでみたら」
「そう。でも下巻なの?上巻はないの?」と友人の奥さん。
「ないよ」
「どうして」
どうも上巻から読みたいみたいです。
「本屋に行ったら、上巻は売り切れで、下巻を買ってきたんだよ。下巻を読んで、面白くなかったら上巻は買わないつもりだったけど、面白かったからそのうち買うつもり」
友人たちは笑っていました。
上巻から読まないと気がすまない人もいるようです。
人に本を貸すときは上巻から貸してあげたほうがよさそうです。
勉強になりました。
もうひとつ本の話です。
私は文庫本を買うとき、10冊とかまとめて買います。
暇ができるとそこから取り出して読みます。
司馬遼太郎の「花神」上下巻を読んでいました。
下巻を読んでいたときのことです。
シーボルトの娘イネが出てきました。
彼女のことは前に書いた、とあるのですが、どうも読んだ覚えがありません。
変だなと思いましたが、そのまま読み終えました。
大変面白かったです。
3年ほど経って、その間に引越しをしました。
その際、ほとんどの本は処分しましたが、何冊かは持って来ました。
暇なとき、読んでない本はないかなと探していたら、「花神」が出てきました。
それも中巻だったのです。
これでなぞが解けました。
中巻も大変面白かったです。
私のような鈍いものには、上、中、下巻は良くないです。
皆様もお気をつけください。
そんな奴は、他にいないですかね。
いやきっといるはずです。
会社勤めをしていた若いころのことです。
会社に行くためバスを待っていました。
バスの待ち方は場所によって異なります。
仙台に行ったとき、一列に並んで整然と待っているのを見てびっくりしました。
私の所では、バラバラに待っています。
5,6人は待っていたと思います。
私は新聞を読んでいました。
ひとつの記事を読み終えて、顔を上げたら、誰もいなくなっていました。
バスが来て、行ってしまったようです。
新聞を読んでいる人には、「バスが来ましたよ」とやさしく声をかけてあげましょう。
これも若いころのことです。
私は、つめを切るにはカッターナイフ、耳掃除にはドリルの刃を使っていました。
ドリルの刃は、耳掃除に威力を発揮しました。
刃の方を耳に突っ込み、くるくる回してあげると、面白いように垢が取れます。
いつものようにドリルの刃で耳掃除をしたあくる日、なんか耳の辺りが重たく感じました。
どうもドリルの刃が傷をつけたらしく炎症を起こしたようです。
ほっといたら直りましたが、それからはドリルの刃を使うのを止めました。
耳掃除には、ドリルの刃はよくありません。
皆様もお気をつけください。
中国の文化大革命当時の自伝的小説、「ワイルドスワン」の下巻を読み終わって、いい本だなと思っていたある夜のことです。
友人から晩飯を食いに来ないかとお誘いがかかりました。
喜んで、「行くよ」と答えました。
車で40分くらいのところに友人は住んでいました。
良い小説だから貸してやろうと思って、その本を持って行きました。
ゆっくりしたころ、本を取り出し、貸そうとしました。
「いい本だから読んでみたら」
「そう。でも下巻なの?上巻はないの?」と友人の奥さん。
「ないよ」
「どうして」
どうも上巻から読みたいみたいです。
「本屋に行ったら、上巻は売り切れで、下巻を買ってきたんだよ。下巻を読んで、面白くなかったら上巻は買わないつもりだったけど、面白かったからそのうち買うつもり」
友人たちは笑っていました。
上巻から読まないと気がすまない人もいるようです。
人に本を貸すときは上巻から貸してあげたほうがよさそうです。
勉強になりました。
もうひとつ本の話です。
私は文庫本を買うとき、10冊とかまとめて買います。
暇ができるとそこから取り出して読みます。
司馬遼太郎の「花神」上下巻を読んでいました。
下巻を読んでいたときのことです。
シーボルトの娘イネが出てきました。
彼女のことは前に書いた、とあるのですが、どうも読んだ覚えがありません。
変だなと思いましたが、そのまま読み終えました。
大変面白かったです。
3年ほど経って、その間に引越しをしました。
その際、ほとんどの本は処分しましたが、何冊かは持って来ました。
暇なとき、読んでない本はないかなと探していたら、「花神」が出てきました。
それも中巻だったのです。
これでなぞが解けました。
中巻も大変面白かったです。
私のような鈍いものには、上、中、下巻は良くないです。
皆様もお気をつけください。
そんな奴は、他にいないですかね。
いやきっといるはずです。
会社勤めをしていた若いころのことです。
会社に行くためバスを待っていました。
バスの待ち方は場所によって異なります。
仙台に行ったとき、一列に並んで整然と待っているのを見てびっくりしました。
私の所では、バラバラに待っています。
5,6人は待っていたと思います。
私は新聞を読んでいました。
ひとつの記事を読み終えて、顔を上げたら、誰もいなくなっていました。
バスが来て、行ってしまったようです。
新聞を読んでいる人には、「バスが来ましたよ」とやさしく声をかけてあげましょう。
これも若いころのことです。
私は、つめを切るにはカッターナイフ、耳掃除にはドリルの刃を使っていました。
ドリルの刃は、耳掃除に威力を発揮しました。
刃の方を耳に突っ込み、くるくる回してあげると、面白いように垢が取れます。
いつものようにドリルの刃で耳掃除をしたあくる日、なんか耳の辺りが重たく感じました。
どうもドリルの刃が傷をつけたらしく炎症を起こしたようです。
ほっといたら直りましたが、それからはドリルの刃を使うのを止めました。
耳掃除には、ドリルの刃はよくありません。
皆様もお気をつけください。
2007年04月11日
恥について
恥について
今回は、日本の文化の根幹であった恥についてのN様とのメールのやり取りを載せます。
素人が、文化論じみたことを言っておこがましいですが、外部からの影響は受けつつも、ともに今まで生きてきた中で獲得したオリジナルな考えを述べています。
そこらあたりを評価してください。
N様の、「気恥ずかしい」という言葉から、話が広がります。
岩崎弥太郎の話は、司馬遼太郎がどこかに書いていたものからの援用です。
これを読んだとき、私は大いに感動しました。
司馬遼太郎は、すばらしい小説家であるだけでなく、本物の思想家であると思っております。
<私のメール>
音に関して、本当に自分の耳で判断している人が少ないのには、驚かされます。
以前、Cadet靴鮖酊依僂砲送りしたとき、そのお客様は自分で聴かれて、大いに感動されていたのですが、その方の友人に聴かせたあと、がらりと態度を変えてしまいました。
これは何なのだろうと思いました。
この人とは付き合えないと思いました。
オーディオ仲間など、私には本当に必要ありません。
良い音だと思っても、行きがかりで、けなしたりするのが、オーディオ人の特徴です。
私は、頑固な人間が大好きです。
頑固な人間は信用できると思っています。
友人たちも、優しいですが、頑固者ばかりです。
付和雷同する人たちとは、付き合わないことにしています。
まあ、商売人としては失格ですが。
「N様のメール」
ブログの方も拝見致しました。
ああしていざ乗ってみるとやはり一寸気恥ずかしい部分はありますが、__様が伝えたいことに一寸でもお役に立っていれば幸いです。
誰かから、これが高価だからとか、~先生が良いと言っているからとか、皆が良いと言っている物だと言われると、そこに正解があると思ってしまうのは、多分"正しい答え"みたいな教え方をする日本の音楽教育と、音楽文化の広がりの無さにその一因があるのではないかと思ってしまいます。
ましてや一種のステータスとか、自分は文化人であると人に見せるためという人では言わずもがなでしょう。
実際私自身、趣味なのだから自分が良いと判断した物が自分にとって良い物だという境地に達したのは、それほど前のことではないです。
ただ、私が私の感覚感性を基準として良し悪しを判断しているのだから、他人には紹介することはあったとしても、決して判断を押しつける様なまねは慎むべきだとも考えています。
私には、オルガン好きなオーディオ仲間がいますが、他の趣味も共通していることと、お互い自分の趣味を押しつけないこともあってか、かれこれ十年近くつきあいが続いています。
<私のメール>
ありがとうございます。
日本人は恥が基本です。
友人たちは、私が恥ずかしがり屋であることを信じてくれません。
無理して、そのように振舞っているだけです。
恥ずかしさを感じない人間とはどうもうまく行きません。
江戸時代、三菱を創業した岩崎弥太郎の借金の証文が残っているそうです。
物質的な担保などは無く、返済できない場合は、笑ってくださいと書かれているだけだそうです。
これが決して特殊な証文ではなく、一般的なものだそうです。
庶民レベルではそうでもないのでしょうが、少なくとも武士はこれで十分だったのでしょう。
恥の文化は廃れました。
次に何をバックボーンとして持つかが、現在の日本人の課題です。
オーディオ仲間といっても個人の質がかかわります。
私はよい人とめぐり会いませんでしたが、__さんはめぐり会えたということですね。
オーディオを趣味とする人にも、__さんのような人もおられるのですから、一概に切り捨てるのも間違えですね。
「N様のメール」
本人が恥を感じることと、人から恥ずかしがり屋と思われることは、大きく乖離があることかと思います。
恥ずかしがり屋と思われるということは、人から見てより高頻度に、乃至はより強く恥ずかしいと感じていることを表す様子・行為などをしているということでしょう。
ですから、例えば恥と感じていることそのものを表すことをすら恥と思い、通常と変わらない行動様子をする人は、人から恥ずかしがり屋と思われ難いことになるかと思います。
さらに加えれば、恥を知る者と恥ずかしがり屋の差もあろうかと思います。
恥については、皆さんそれぞれでお持ちだと信じたいというのが私の想いですが、やはり廃れつつあるのでしょうね。
恥もやはり"文化"に根差している物だと思うので、時の移ろい、人の流れと共に変わって行くのはある程度仕方はないとは思うのですが。
"恥"は個々人が様々な内部規範を持って社会集団に属し、その社会が上手く運営されて行くための大きな一つの概念だと思うのですが、集団内での義務より権利が優先され、また、幼い頃から成人するまでの社会との関わり方が変わってきたことも、恥といった成熟した社会に必要と思う概念が廃れて来た一因なのかなと思います。
"日本人は"恥が基本ですとお書きになっておられましたが、ブログで拝読させて頂いたことどもなども鑑みると、個々人のレベルでは必ずしもそうとは言えないかも知れませんが、"恥"と"誇り"は多分対になって英国人を始めとする諸外国の人々もお持ちだと思いますし、本来日本でも廃れさせるべきではないはずなのにと思っています。
<私のメール>
恥についての明確なご指摘、おそらく今までの__さんの人生の中で、はずかしさと向き合わねばならなかった時期がお有りであった、と推察しました。
特に、「恥ずかしいと思っていることを他人に悟られたくない」と思う心持は、よくわかりますし、__さんも同じだったのだと思いました。
__さんの文章を初めて読んだとき、親近感を感じた最大のものは「恥を感じる心を持っている人」であったのかもしれません。
今は、恥に対して積極的な価値を見出しておりますが、若いころは、他人の価値判断で自分を律しているようで、自分の弱さと感じていました。
対象化、論理化するということは、ひとつの救いです。
若いころとは価値基準も変わってきました。
あと、年を取ることでの感覚の鈍磨も幸いしています。
感覚の鈍磨を幸いと思うほど、若いころ、恥ずかしさに敏感であることは、私にとって苦しいことでした。
__さんのご指摘で、わかったことですが、私は、西欧人は「罪の文化」、日本人は「恥の文化」と、単純化して考えていたようです。
どうも私は、単純化した固定概念に弱いのかもしれません。
まあ、おっちょこちょいですから。
「N様のメール」
私自身もそうですが、人は多くの単純化した固定概念に依存して生きているものだと思います。
文化の一部は、類似する固定概念群を共有することなのかなとも思いますし、教育の目的の一つは、本人の直接経験に基づかない、他者の構築した固定概念の伝達とも言えるかと思います。
で、ふとした切っ掛けで興味を持ったり、疑問に思ったりして、考え、探求して、その中に気づきを得たり、過ちを見いだしたりして修正し、それを次の固定概念や判断基準にして成長してゆくのではないかと思っています。
そういった意味で、__様との出会いは、オイルコンを売って頂いただけでなく、私自身の見識を広める事にも繋がっている、そんな良い出会いだったと思っています。
メール終わり。
私の問いかけに、もうこれ以上ないという理解力で返事が返ってきます。
頭の良い人とのメールは、このように心地よいものかと感じました。
私の経験からしますと、恥を感じることを捨て去りたいと思っている人も多いのではと思います。
しかしながら、それを感じることは、私たちにとって、必須の能力であり、大切な行動規範のひとつであるのかもしれません。
今回は、日本の文化の根幹であった恥についてのN様とのメールのやり取りを載せます。
素人が、文化論じみたことを言っておこがましいですが、外部からの影響は受けつつも、ともに今まで生きてきた中で獲得したオリジナルな考えを述べています。
そこらあたりを評価してください。
N様の、「気恥ずかしい」という言葉から、話が広がります。
岩崎弥太郎の話は、司馬遼太郎がどこかに書いていたものからの援用です。
これを読んだとき、私は大いに感動しました。
司馬遼太郎は、すばらしい小説家であるだけでなく、本物の思想家であると思っております。
<私のメール>
音に関して、本当に自分の耳で判断している人が少ないのには、驚かされます。
以前、Cadet靴鮖酊依僂砲送りしたとき、そのお客様は自分で聴かれて、大いに感動されていたのですが、その方の友人に聴かせたあと、がらりと態度を変えてしまいました。
これは何なのだろうと思いました。
この人とは付き合えないと思いました。
オーディオ仲間など、私には本当に必要ありません。
良い音だと思っても、行きがかりで、けなしたりするのが、オーディオ人の特徴です。
私は、頑固な人間が大好きです。
頑固な人間は信用できると思っています。
友人たちも、優しいですが、頑固者ばかりです。
付和雷同する人たちとは、付き合わないことにしています。
まあ、商売人としては失格ですが。
「N様のメール」
ブログの方も拝見致しました。
ああしていざ乗ってみるとやはり一寸気恥ずかしい部分はありますが、__様が伝えたいことに一寸でもお役に立っていれば幸いです。
誰かから、これが高価だからとか、~先生が良いと言っているからとか、皆が良いと言っている物だと言われると、そこに正解があると思ってしまうのは、多分"正しい答え"みたいな教え方をする日本の音楽教育と、音楽文化の広がりの無さにその一因があるのではないかと思ってしまいます。
ましてや一種のステータスとか、自分は文化人であると人に見せるためという人では言わずもがなでしょう。
実際私自身、趣味なのだから自分が良いと判断した物が自分にとって良い物だという境地に達したのは、それほど前のことではないです。
ただ、私が私の感覚感性を基準として良し悪しを判断しているのだから、他人には紹介することはあったとしても、決して判断を押しつける様なまねは慎むべきだとも考えています。
私には、オルガン好きなオーディオ仲間がいますが、他の趣味も共通していることと、お互い自分の趣味を押しつけないこともあってか、かれこれ十年近くつきあいが続いています。
<私のメール>
ありがとうございます。
日本人は恥が基本です。
友人たちは、私が恥ずかしがり屋であることを信じてくれません。
無理して、そのように振舞っているだけです。
恥ずかしさを感じない人間とはどうもうまく行きません。
江戸時代、三菱を創業した岩崎弥太郎の借金の証文が残っているそうです。
物質的な担保などは無く、返済できない場合は、笑ってくださいと書かれているだけだそうです。
これが決して特殊な証文ではなく、一般的なものだそうです。
庶民レベルではそうでもないのでしょうが、少なくとも武士はこれで十分だったのでしょう。
恥の文化は廃れました。
次に何をバックボーンとして持つかが、現在の日本人の課題です。
オーディオ仲間といっても個人の質がかかわります。
私はよい人とめぐり会いませんでしたが、__さんはめぐり会えたということですね。
オーディオを趣味とする人にも、__さんのような人もおられるのですから、一概に切り捨てるのも間違えですね。
「N様のメール」
本人が恥を感じることと、人から恥ずかしがり屋と思われることは、大きく乖離があることかと思います。
恥ずかしがり屋と思われるということは、人から見てより高頻度に、乃至はより強く恥ずかしいと感じていることを表す様子・行為などをしているということでしょう。
ですから、例えば恥と感じていることそのものを表すことをすら恥と思い、通常と変わらない行動様子をする人は、人から恥ずかしがり屋と思われ難いことになるかと思います。
さらに加えれば、恥を知る者と恥ずかしがり屋の差もあろうかと思います。
恥については、皆さんそれぞれでお持ちだと信じたいというのが私の想いですが、やはり廃れつつあるのでしょうね。
恥もやはり"文化"に根差している物だと思うので、時の移ろい、人の流れと共に変わって行くのはある程度仕方はないとは思うのですが。
"恥"は個々人が様々な内部規範を持って社会集団に属し、その社会が上手く運営されて行くための大きな一つの概念だと思うのですが、集団内での義務より権利が優先され、また、幼い頃から成人するまでの社会との関わり方が変わってきたことも、恥といった成熟した社会に必要と思う概念が廃れて来た一因なのかなと思います。
"日本人は"恥が基本ですとお書きになっておられましたが、ブログで拝読させて頂いたことどもなども鑑みると、個々人のレベルでは必ずしもそうとは言えないかも知れませんが、"恥"と"誇り"は多分対になって英国人を始めとする諸外国の人々もお持ちだと思いますし、本来日本でも廃れさせるべきではないはずなのにと思っています。
<私のメール>
恥についての明確なご指摘、おそらく今までの__さんの人生の中で、はずかしさと向き合わねばならなかった時期がお有りであった、と推察しました。
特に、「恥ずかしいと思っていることを他人に悟られたくない」と思う心持は、よくわかりますし、__さんも同じだったのだと思いました。
__さんの文章を初めて読んだとき、親近感を感じた最大のものは「恥を感じる心を持っている人」であったのかもしれません。
今は、恥に対して積極的な価値を見出しておりますが、若いころは、他人の価値判断で自分を律しているようで、自分の弱さと感じていました。
対象化、論理化するということは、ひとつの救いです。
若いころとは価値基準も変わってきました。
あと、年を取ることでの感覚の鈍磨も幸いしています。
感覚の鈍磨を幸いと思うほど、若いころ、恥ずかしさに敏感であることは、私にとって苦しいことでした。
__さんのご指摘で、わかったことですが、私は、西欧人は「罪の文化」、日本人は「恥の文化」と、単純化して考えていたようです。
どうも私は、単純化した固定概念に弱いのかもしれません。
まあ、おっちょこちょいですから。
「N様のメール」
私自身もそうですが、人は多くの単純化した固定概念に依存して生きているものだと思います。
文化の一部は、類似する固定概念群を共有することなのかなとも思いますし、教育の目的の一つは、本人の直接経験に基づかない、他者の構築した固定概念の伝達とも言えるかと思います。
で、ふとした切っ掛けで興味を持ったり、疑問に思ったりして、考え、探求して、その中に気づきを得たり、過ちを見いだしたりして修正し、それを次の固定概念や判断基準にして成長してゆくのではないかと思っています。
そういった意味で、__様との出会いは、オイルコンを売って頂いただけでなく、私自身の見識を広める事にも繋がっている、そんな良い出会いだったと思っています。
メール終わり。
私の問いかけに、もうこれ以上ないという理解力で返事が返ってきます。
頭の良い人とのメールは、このように心地よいものかと感じました。
私の経験からしますと、恥を感じることを捨て去りたいと思っている人も多いのではと思います。
しかしながら、それを感じることは、私たちにとって、必須の能力であり、大切な行動規範のひとつであるのかもしれません。
2007年04月03日
Golden Age
1950、60年代はオーディオのゴールデンエイジと言われています。
現在、オーディオファイルの間で人気のあるビンテージのオーディオ機器はほとんどこの時代に作られました。
なぜこの時代の音が、技術の進んだ現代においても通用し、多くの人たちが現代の音より良いと考えるのかについての、私なりの考察です。
覚書程度のもので、正確を期しているわけではなく、疎漏な部分も多々あるかと思いますが、お許しください。
時代について考えようとしています。
ある時代は、そこに生きた人々は自覚しなかったかもしれませんが、後世から見ると、そこだけが一瞬光り輝き、多くの優れた作品を排出し、すぐに色あせて行ってしまうように思われます。
イタリアルネサンスのフィレンツェはレオナルドダビンチやミケランジェロのような芸術家を輩出します。
以前、フィレンツェの当時の人口をを知ったとき、ちょっとした衝撃を受けました。
私はそのころ東京郊外の町田市に住んでおりましたが、ルネサンス時代のフィレンツェの人口は今の町田市より少なかったと記憶しております。
私の家の隣に工房があって、レオナルドダビンチが作業をしていてもおかしくないと想像しておりました。
さらに、ダビンチやミケランジェロは、ルネサンスの時代に生きていなければ、ただの職人さんで終わっていただろうと容易に想像できました。
その時代のなせるわざです。
100万の人口がいれば、ダビンチやミケランジェロのような芸術家になることのできる潜在能力を持った人たちがいるのではないかと考えてしまいます。
人間とはそういうものなのかもしれません。
政治体制のしっかりしたベネツィアではなく、脆弱な体制しか持たないフィレンツェに光が当たり、さらに収束してダビンチやミケランジェロを光り輝かせたのですから不思議です。
いけません、場所の特定は止めましょう、今は時代について考えています。
時代が芸術家を作ったのです。
さて、Golden Ageです。
私は、1950, 60年代、ルネサンスと比べれば規模は小さいながら、同じことがオーディオの世界にも起こっていたと信じております。
ラジオの音を聴いてきた人たちが、より良い音で聴きたいと思い、その欲求がピークに達した時代であったと想像されます。
メーカーは良い音を出すことに集中していました。
ソースはレコードプレーヤー、デバイスは真空管。
ともに作り手の腕と耳さえあれば、音に関する自由度のある素材であったように感じます。
この時代、部品の一つ一つが、音のために研ぎ澄まされていたのではないでしょうか。
マッキンマランツの真空管アンプ、ガラードやトーレンスのプレーヤー、数え上げればきりの無い、音の良い製品がこの時代に誕生しました。
オーディオの黄金時代も、視覚を伴ったテレビの普及とともに、衰退して行きます。
私たちは音に集中したいとき、しばしば目を閉じます。
視覚は音にとって邪魔だからです。
テレビを見ながら音は聴けません。
トランジスタ化されたことにもその一因があったはずです。
当時のトランジスタアンプは、ワイドレンジになった代わりに、うっとりと聴き惚れることがなくなりました。
聴いていて疲れてしまうという経験をしたのは、トランジスタアンプになってからのことです。
Golden Ageの作り手たちは、一歩間違えれば奈落の底の恐怖があった代わりに、その緊張感と集中力によって、後世の人々が賞賛する製品を作り上げることが出来たのですから、幸せであったはずです。
名も知らぬ技術者たちに感謝です。
現在、オーディオファイルの間で人気のあるビンテージのオーディオ機器はほとんどこの時代に作られました。
なぜこの時代の音が、技術の進んだ現代においても通用し、多くの人たちが現代の音より良いと考えるのかについての、私なりの考察です。
覚書程度のもので、正確を期しているわけではなく、疎漏な部分も多々あるかと思いますが、お許しください。
時代について考えようとしています。
ある時代は、そこに生きた人々は自覚しなかったかもしれませんが、後世から見ると、そこだけが一瞬光り輝き、多くの優れた作品を排出し、すぐに色あせて行ってしまうように思われます。
イタリアルネサンスのフィレンツェはレオナルドダビンチやミケランジェロのような芸術家を輩出します。
以前、フィレンツェの当時の人口をを知ったとき、ちょっとした衝撃を受けました。
私はそのころ東京郊外の町田市に住んでおりましたが、ルネサンス時代のフィレンツェの人口は今の町田市より少なかったと記憶しております。
私の家の隣に工房があって、レオナルドダビンチが作業をしていてもおかしくないと想像しておりました。
さらに、ダビンチやミケランジェロは、ルネサンスの時代に生きていなければ、ただの職人さんで終わっていただろうと容易に想像できました。
その時代のなせるわざです。
100万の人口がいれば、ダビンチやミケランジェロのような芸術家になることのできる潜在能力を持った人たちがいるのではないかと考えてしまいます。
人間とはそういうものなのかもしれません。
政治体制のしっかりしたベネツィアではなく、脆弱な体制しか持たないフィレンツェに光が当たり、さらに収束してダビンチやミケランジェロを光り輝かせたのですから不思議です。
いけません、場所の特定は止めましょう、今は時代について考えています。
時代が芸術家を作ったのです。
さて、Golden Ageです。
私は、1950, 60年代、ルネサンスと比べれば規模は小さいながら、同じことがオーディオの世界にも起こっていたと信じております。
ラジオの音を聴いてきた人たちが、より良い音で聴きたいと思い、その欲求がピークに達した時代であったと想像されます。
メーカーは良い音を出すことに集中していました。
ソースはレコードプレーヤー、デバイスは真空管。
ともに作り手の腕と耳さえあれば、音に関する自由度のある素材であったように感じます。
この時代、部品の一つ一つが、音のために研ぎ澄まされていたのではないでしょうか。
マッキンマランツの真空管アンプ、ガラードやトーレンスのプレーヤー、数え上げればきりの無い、音の良い製品がこの時代に誕生しました。
オーディオの黄金時代も、視覚を伴ったテレビの普及とともに、衰退して行きます。
私たちは音に集中したいとき、しばしば目を閉じます。
視覚は音にとって邪魔だからです。
テレビを見ながら音は聴けません。
トランジスタ化されたことにもその一因があったはずです。
当時のトランジスタアンプは、ワイドレンジになった代わりに、うっとりと聴き惚れることがなくなりました。
聴いていて疲れてしまうという経験をしたのは、トランジスタアンプになってからのことです。
Golden Ageの作り手たちは、一歩間違えれば奈落の底の恐怖があった代わりに、その緊張感と集中力によって、後世の人々が賞賛する製品を作り上げることが出来たのですから、幸せであったはずです。
名も知らぬ技術者たちに感謝です。