2007年12月18日
同室者 その2
同室者は栄養失調でした。
それは症状であり、勿論他に原因があります。
そのことについて、医者は私たちには詳しく話してはくれませんでした。
彼はほとんど食事を取っていなかったのです。
寮では、朝食と夕食の賄が付きます。
決められた時間内に、食堂で食べます。
賄い付きの下宿代が、当時15,000円ぐらいでした。
寮は、部屋代、光熱費、食事代の全てを入れて、1ヶ月5,000円ほどで、それも後払いでした。
授業料は申請を出せば、ほぼ100%免除されましたし、企業等の奨学金も楽に取れました。
ある寮生などは、育英会は当然のこと、出身地や、企業など4つの奨学金をもらい、逆に貧しい実家に仕送りをしているぐらいでした。
彼には仕送りもあったようですし、食事代が払えないはずはありません。
経済的理由ではありません。
食事をしていなかった原因は、精神的なものでした。
社研の人から聞いた話です。
彼は関東の大学で、学生運動の闘士でした。
機動隊との衝突で、頭を割られ、それからおかしくなったらしいです。
大学を辞め、私たちの大学を受けなおし、その年に入学してきたのです。
ですから私たちよりもずっと年上でした。
社研の人たちとは、同じ反日共系であってもセクトが違いました。
セクトが違うと警戒しますから、彼らは彼との交流を避けていたのです。
それだけでなく、私が感じたと同様に彼のとらえどころの無さを、彼らも感じていたのだと思います。
とにかく、社研の人たちと分担を決め、付き添うことにしました。
当時は完全看護など無い時代です。誰かが付き添うものでした。
現在私は、母親の介護をしていますが、自分の症状を正直には話してくれません。
辛そうにしているので、大丈夫かと訊くと、大丈夫と答えます。
そんなことを繰り返していたある日、母の顔を見ていて、どうもこれは尋常ではないと感じました。
母を説得し、夜中でしたが、救急車を呼んで病院に行くことにしました。
来てくれた救急隊員に「おなかが痛い」と母が言ったのには驚きました。
私は、一度としてそんなことを聞いたことがなかったのです。
病人は、病院に行くことを嫌いますが、病気を治すには行かなければならないとわかった時、緊張が解けるようです。
こちらが顔を見て判断し、病気を見つけてやらなければならないのだと良くわかりました。
彼も同じでした。
心のどこかで、彼の病に早く気付いてほしかったのだと思います。
私が付き添いした最初の時です。
緊張が解けたのでしょうか、ひと月以上同室にいながら、私は初めて、彼がしゃべるのを聞きました。
平家物語の細かい部分を熱心に私に語るのです。
残念ながら、私にはそれを理解する知識も能力もありませんでした。
それで、「平家物語のことは良くわからない」と言いました。
彼は、「またまたー」と言って、私がはぐらかしていると誤解しているようでした。
彼は大変勉強が出来た人なのでしょう。
そして自分が持っている知識ぐらいは、他人も同様に持っていると信じているようでした。
私にもう少し知識があれば、聞いてあげられたろうにと思います。
残念です。
2度ほど付き添いをしました。
彼の母親がいらして、実家に連れ帰ったそうです。
寮にも寄られましたが、私は出掛けていて会えませんでした。
大学は辞めたと聞きました。
それは症状であり、勿論他に原因があります。
そのことについて、医者は私たちには詳しく話してはくれませんでした。
彼はほとんど食事を取っていなかったのです。
寮では、朝食と夕食の賄が付きます。
決められた時間内に、食堂で食べます。
賄い付きの下宿代が、当時15,000円ぐらいでした。
寮は、部屋代、光熱費、食事代の全てを入れて、1ヶ月5,000円ほどで、それも後払いでした。
授業料は申請を出せば、ほぼ100%免除されましたし、企業等の奨学金も楽に取れました。
ある寮生などは、育英会は当然のこと、出身地や、企業など4つの奨学金をもらい、逆に貧しい実家に仕送りをしているぐらいでした。
彼には仕送りもあったようですし、食事代が払えないはずはありません。
経済的理由ではありません。
食事をしていなかった原因は、精神的なものでした。
社研の人から聞いた話です。
彼は関東の大学で、学生運動の闘士でした。
機動隊との衝突で、頭を割られ、それからおかしくなったらしいです。
大学を辞め、私たちの大学を受けなおし、その年に入学してきたのです。
ですから私たちよりもずっと年上でした。
社研の人たちとは、同じ反日共系であってもセクトが違いました。
セクトが違うと警戒しますから、彼らは彼との交流を避けていたのです。
それだけでなく、私が感じたと同様に彼のとらえどころの無さを、彼らも感じていたのだと思います。
とにかく、社研の人たちと分担を決め、付き添うことにしました。
当時は完全看護など無い時代です。誰かが付き添うものでした。
現在私は、母親の介護をしていますが、自分の症状を正直には話してくれません。
辛そうにしているので、大丈夫かと訊くと、大丈夫と答えます。
そんなことを繰り返していたある日、母の顔を見ていて、どうもこれは尋常ではないと感じました。
母を説得し、夜中でしたが、救急車を呼んで病院に行くことにしました。
来てくれた救急隊員に「おなかが痛い」と母が言ったのには驚きました。
私は、一度としてそんなことを聞いたことがなかったのです。
病人は、病院に行くことを嫌いますが、病気を治すには行かなければならないとわかった時、緊張が解けるようです。
こちらが顔を見て判断し、病気を見つけてやらなければならないのだと良くわかりました。
彼も同じでした。
心のどこかで、彼の病に早く気付いてほしかったのだと思います。
私が付き添いした最初の時です。
緊張が解けたのでしょうか、ひと月以上同室にいながら、私は初めて、彼がしゃべるのを聞きました。
平家物語の細かい部分を熱心に私に語るのです。
残念ながら、私にはそれを理解する知識も能力もありませんでした。
それで、「平家物語のことは良くわからない」と言いました。
彼は、「またまたー」と言って、私がはぐらかしていると誤解しているようでした。
彼は大変勉強が出来た人なのでしょう。
そして自分が持っている知識ぐらいは、他人も同様に持っていると信じているようでした。
私にもう少し知識があれば、聞いてあげられたろうにと思います。
残念です。
2度ほど付き添いをしました。
彼の母親がいらして、実家に連れ帰ったそうです。
寮にも寄られましたが、私は出掛けていて会えませんでした。
大学は辞めたと聞きました。
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