2025年05月04日

Western Electric モノラルヘッドフォン 2台

Western Electricのヘッドフォンの紹介である。

詳しいお客さんに教えてもらった。

以下で語られていることは、そのお客さんの考えや推測がネタ元になっている。




まずは、905

モールス信号の受信に使われたのではとのこと。

ゲルマニュームラジオを聴くのによいらしい。

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普通のヘッドフォンのように聴いたらどうかということでやってみた。

スマホで聴いてみる。

スマホの出力を3.5㎜のプラグで受け、古いヘッドフォンの6.3㎜のプラグが使えるように用意した。

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こんな感じである。
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音量は、スマホのレベルを最大にして、ようやく普通に聴ける程度である。

音自体は、帯域は狭いながらも、明確な音である。

このヘッドフォンのDCRを測定すると、2.2kΩもある。

かなりのハイインピーダンスとのことで、詳しいお客さんが、調整用にトランスをかましたのを作ってくださった。

昇圧も兼ねている。

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こんな感じである。
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この時の音量は大きくなる。音は少し柔らかくなる程度であまり変化はない。

大きなな音量が出せるので、ボリュームで最適音量にすることができる。
  



HNB-H-1

DCRが211Ω。

左右のユニットは直列に接続されているから、1個では100Ωほどである。

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昇圧しなくても音量は十分ある。

私には非常に良い音に聴こえるのだが。好みなんでしょう。

スマホに直接接続。
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昇圧して接続。
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古くて現代の音には合わないのではと思ったが、2台のヘッドフォン、なかなかの音で鳴ってくれたのには驚いた。

ウエスタンの音なのだろう。初めて聴いた。


芸能芸術の分野では、個々人の好みを許すものと思っている。

甘党の人もいれば、辛党の人もいる。

甘党はだめだから、辛党になれと言われても、だれも承諾できない。

夏目漱石はだめだから、森鴎外を好きになれ、なんてことを言われたら、なんだこいつということになる。



芸能芸術の世界では、個々人の好みを許すのである。

オーディオも芸能芸術に属するものだから、自分の好みを大事にすることが肝心である。

オーディオに精通した大先生の音がちっとも良いと思えないとしても、好みが違うから当たり前のことである。

大先生の好みが、正解ではないのである。

オーディオだって、芸能芸術の分野だから、自分の好みが正解なのである。



だから私は音について書いた後、必ず音を出してきた。

決して正解はない、個々の人に判断してもらうしかないと思っているからである。

今回はヘッドフォンなので、さすがに音は出せなかった。

残念。



多くの人が好ましいと思う音はある。

しかしながら、時代によっても異なるものである。

決して正解はないのである。

自分の好みを信じるしかないのだ。




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2025年04月22日

建築に感動することがあるんだ。双樹亭(一茶双樹記念館)


建物に感動するなんて、俺にはないと思っていた。

ものを見て感動する能力はないはずであった。

今回は感じたのである。

何に? 


去年養老渓谷旅行の時の水野、萩原、私の3人で、4月20日の日曜日、流山のスーパー銭湯に行ってきた。

水野の病気治療の合間に、少しは気が晴れればと計画したものだった。

水野はスーパー銭湯が好きなのだ。

元気なころは車で来ていたそうである。

双樹庵にて-2
いつもの二人と【水野と萩原】

私にとっては初めてのスーパー銭湯である。

なかなか気持ちの良いものであったが、一つ気に入らないことがあった。

私の周りには極力鏡を排除してある。

鏡に映る自分を見ると腹が立つからである。

スーパー銭湯の風呂場には、大きな鏡があり、腹は出ていないと自らに言い聞かせている私の目に、私の奇跡の三段腹を正面からこれ見よがしに見せつけるのである。

気分が悪い。

まあ、スーパー銭湯では我慢するしかない。

ぼかしを入れるとか、鏡も気を遣うようになれば、自分の周りにも置いてもいいのだけれど、まだ無理だ。



スーパー銭湯の後、昔三郷に住んでいた水野が、古い家並みの通りがあるから行ってみるかという。

江戸時代の風情が残っているなら、ぜひ見てみたいと思った。

残念だった。

はとんどの家が、建て替えられていて、昔の雰囲気を感じることはできなかった。

代わりに、一茶双樹記念館に案内してくれた。

まさに江戸時代の建物だ。

これがなんとも当たりだった。




建物音痴と言ってもよいほど建築物に感動したことのない私が、一茶双樹記念館にある双樹亭という建物に魅了されてしまったのである。


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上の画像で、押し入れや床の間のある上面が北向きである。

三つの部屋の縁側との境界にはすべて障子が配されているが、障子はすべて開けられた状態になっているから、南、東、西、すべてが解放されているように感じた。

開放感を演出するとみられているガラスが、意外と閉塞感をもたらしているのかもしれない。

ガラスで閉じられることもななく、開け放された空間は何とも気持ちの良いものである。



部屋には自由に入ってよいとのことだった。

珍しい、通常、畳には入れないことの方が多い。ここは入れる。

さらに、入館料は取らないという。

もう遅い時間だったらしく、私たち以外は誰もいなかった。

水野、萩原、私の3人だけで、座って庭を楽しむことができた。

気持ちが良い。

双樹庵-2
萩原の写真

ガラスで仕切られることも無く、三方向が開かれた部屋に座っている解放感はちょっとやそっとでは味わえるものではない。

その日は晴れて気持ちが良かったが、風は全くと言っていいほどなかった。

少し風が吹いてくれれば最高だったろう。

双樹庵-3
萩原の写真

縁側の外周部に雨戸の溝が掘ってあった。

東と西は戸袋があるから、雨戸はすぐに引き出せる。

問題は一番長い南向きに雨戸をはめる作業は、雨戸を担いでいってはめるのだろうか。

ガラスがないのだから、雨が降れば縁側や障子が濡れてしまう。雨戸は必ず取り付けなければならない。

一枚一枚担いではめるのは大変だろうと思った。



事務所に係の女性がいらしたので、雨戸はどうしているかと訊いてみた。

角を通す方法があるという。

馬鹿な質問だけれど、蛇腹ですかと訊いてしまった。あり得ないよな。

90度回転させるのだそうである。これも私の頭ではありえない。どうするのだろう。

天才的なやつがいて、創造的な工夫をしていたのだろう。すごいね。


帰ってきて調べた。

雨戸の90度回転の映像がないかと探してみた。

あったのだ。

双樹亭とは関係ないが、国登録有形文化財 八鶴館というのがあった。

ありがたい。

回転雨戸 八鶴館


下側しか映していませんが、おそらく上側にも同じ金属の棒が出ていて、上下2本で、90度回転する雨戸を支えるようになっているのだ。

いたってシンプル。

溝から浮かせて回転させるのが肝。上の溝も半分は削られているはずだ。

溝から離れることのできない私には、到底思いつかない。

自由な思考を持つ天才がいたのですね。

そうか、なるほどという感じだけど、これを考え付くのは大変ですよ。

俺には絶対無理だ。



何とも素晴らしい体験だったのに、無料であったので、少額だけど寄付をしたいと申し出た。

市がやっていることなので、寄付は受け付けていないという。

早い時間なら、有料のお茶を出しているそうである。

今度来た時、お茶を飲んでほしいとのことでした。



必ず、また来ます。






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2025年03月30日

人は言葉でなくても考える


若いころ、「人は言葉で考える」 と書いてあるのを本で読んで、思いもしないことであったので、大いに驚いた。

自分の中で検証し、その通りだと納得したのである。

なぜ納得してしまったのであろう。

言葉を使わず考えるなどということは普通にあることなのに。



例で示そう。

私は、英国製の古いオーディオ製品を扱っている。

動作しないターンテーブルを修理することもある。

古いものだから、交換部品もないことがほとんどである。

工夫をしなければならない。



頭の回転の速い方ではないから、初見では何が何だかわからない。

我慢して、時間をおいて何度か見ているうちに慣れてくるのか、次第に動作が見えてくる。

そのうち、実物を見ていなくても、ターンテーブルの画像が頭の中に描き出される。

動きを考える。画像のままで考える。頭の中で動かしてみる。

言葉は入り込まない。



こんなことも起こる。

全く違うことをしているときに、急にターンテーブルの画像が現れ、解決策が示される。

一種のひらめきというものだろう。



以上のことは、言葉がなくても起こることである。



言葉は、情報伝達のためにはよい武器である。

しかしながら、自分以外の人に伝えるために、言葉は抽象化されなければならない。

例えば、「犬」という言葉を考えてみよう。

ある人にとっては、一番なじみの犬は土佐犬であり、他の人にとってはポメラニアンだったりする。

人は、大きさ、顔かたち、様々に異なる犬種をいっしょくたにして犬という。

抽象化が行われているから、犬で伝わるのである。

情報伝達のためには、この抽象化は必須のものである。



発明、発見をもたらす「ひらめき」を引き起こすためには、抽象化された言葉ではなく、五感が受け取ったもっとみずみずしい感覚の集積が必要ではないかと思うのです。





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2025年02月07日

”考える”を考える


幼いころ、自分が考えていない時など、ないと思っていた。

常に考え事をしていると思っていたのです。



時が流れ大人になった時、幼いころ考えていると思ったのは、考えていたのではなく、感じていただけのことだったのではないかと気づいたのである。

感じたことを考えていたと勘違いしたのだ。 



さらに私に衝撃を与えることが起こる。

本を読んでいて、「人が考えるときは、言葉で考えている」と書かれていたのである。

思ってもいなかったことであった。本当に言葉で考えているのだろうか。

それで検証してみた。

考えているとき、言葉で考えているのかを、自分の頭の中で探ったのである。

結果、確かに言葉で考えている。

受け入れた。



さて今の私は、どう考えているのであろう。

必ずしも、言葉だけで考えているわけではないと思っている。

感じていると意識すること自体が考えているといえるのではないかとも思っている。

感じることこそが、自ら考える源泉ではないだろうかと今は考えている。



例えば、

爽やかな5月の風が頬をかすめてゆく。

ああ、心地よいなと感じたとする。

心地よいという言葉を知らなくても、その心地よさを味わうことはできる。

その心地よさそのものの感覚として記憶される。

脳で感じ、脳に蓄積される。

まさに考えていることにならないだろうか。

あるいは、考えることはここから始まるのではないか。



もう一つ例を、

風呂に入り、湯船につかり、ふっと息を吐く、ああ心地いいなと感じる。

この心地よさは、風の心地よさとは異なり、風呂の心地よさとして、記憶される。

脳で起こり、脳に蓄積されるのである。

考えていることにならないか。



さて、風の心地よさと、風呂の心地よさは、異なった感覚てある。

脳には異なった感覚として蓄積されているはずである。

ここで、心地よいという言葉が、幼い私に外部から与えられる。

異なった感覚であるが、気分を良くしてくれるものとして、心地よさという言葉に収れんする。

風の心地よさも、風呂の心地よさも、いっしょくたの心地よさになる。

言葉の抽象化である。

言葉は情報伝達にとって大変有効な武器である。

半面、風と風呂のように、具体的な感覚をあいまいにしてしまう。



ああ、横道にそれた。

幼いころの考えるである。

幼いがゆえに、言葉がふんだんに備わってはいなかった。

言語化することもなく、感じていることを蓄積し、過去に感じたことを思い出し、追体験するなどのことを頭の中で目まぐるしく繰り返しながら、それを考えると判断していたようである。

だから、大人になっても、言葉で考えるということをすぐには受け入れられなかったのだと思う。

幼いころ、いつも考えていたということは、ある意味正しかったように思える。

言葉で考えていなかったとしてもである。



私は、大人になった後も、言葉に頼らず考えていることもあるのではないかと思っている。



とにかく、自ら考え始める原動力として、感じることが重要だと思うのである。

感じる能力を持つことは、知識や論理と同様に、いやそれ以上に、人間にとって大事な能力であると思っている。

様々な文化があったとしても、感じる能力を基本とする芸術が、それぞれの文化の中で、重要な位置を占めています。

無意識であっても、感じる能力の重要性を人間はわかっているのです。




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2025年01月17日

音と芸術


私にとって、音を聴くことは、獣的なものである。

決して、知的や論理的なものではない。

なぜ獣的なものに感じるのだろうか。

おそらく、人間の感覚に収れんするものだからであろう。

感覚的にとらえ、感動がやってくる、基本的にはこれでしかない。

もちろん、経験が音の好みに影響を与えることはあるだろう。

しかし、その経験も、感覚にまで昇華されたものでなければならない。



さて、人間の感覚を基本とし、得られる感動から生まれた分野は何であろう。

芸術である。

科学でも学問でもない。

芸術は、論理よりも感覚を主眼とする。感覚を主眼とするものは他にないから、芸術という分野が生まれた。

芸術は、一般的に高尚なものととらえられている。おかしい。

私のような下賤のものにとっては、使うことをはばかる言葉になっている。

これはおかしいのではないか。感覚を主眼とする分野のものはすべて芸術にいれてほしい。

高尚であるかないかは、人によっても、時代によっても、異なる。あやふやなものである。

あやふやなもので判断されたらたまったものではない。

昔からある日本の芸能は、芸術に含まれないのだろうか。当然含まれるはずである。

香道、味覚、歌謡曲、感覚を主眼とするものだから、すべて芸術である。

芸術は高尚である必要はない。一つのジャンルを表す言葉に引き下げてくれないだろうか。

そうでないと、私には芸術という言葉が使えなくなってしまう。



明治のころに、頭の良い人たちによって自分たちにしかわからないものとして芸術を囲い込んでしまったのではないか。

高尚なものだけを芸術とした。

お前たち一般人にはわからないだろうと言われているように感じる。

感じる能力がないのに、知識と論理能力に任せて、多くを語ってくれたのだ。

ひどいもんだ。

感じる能力のないものは黙れと言いたい。

私は一般人である。高尚な人たちの囲い込みは嫌いである。

かくして、芸術という言葉の持つ選良意識を嫌い、私は芸能芸術という言葉を使わなければならないのだ。



さて、オーディオはまさに芸能芸術に属する。

感覚でとらえるものだから、芸術である。

残念ながら、そうは考えない人もいる。

シンクロスコープの波形を示していい音だろうという。

波形が良ければ音がいいのか。

計器がいい音を人間に教えてくれるのか。

スペックが良いものはすべて、音が良いと信じられるのか。

スペックを追い求める人は、音なんて聴いてはいないのではないか。



私がいい音だと思う音の周波数特性が良くないとする。

周波数特性の悪い音を良いというなんてと、馬鹿にする人もいるかもしれない。

周波数特性は客観的事実なのか。音に客観的事実はない。計器がいいといっているだけだ。

同じ音をいいと思う人もいれば悪いと思う人もいる。人それぞれだ。

なんで計器がいい音を教えてくれるのだ。自分で音を聴かなければわからないではないか。

私は私の感覚を信じる。



オーディオは感じるものだから、芸能芸術の分野である。

客観的ないい音などない。自分がいい音と感じることができるかどうかだ。

感動する能力があるかどうかが、芸能芸術のカギである。

言葉で理解するのではない、感じるのである。

スペックが素晴らしくても、つまらない音ばっかりではないか。



ハイレゾのスペックは素晴らしい。

私もそうだが、レコードのほうがいいと思う人がいる。

もっと言えば、78回転のSPレコードを蓄音機で再生した音が最高だという人もいる。

オーディオは芸術部門に属するものだから、当然である。

客観的に音が良いなどということはあり得ないのだ。

ああ、いい音だなと感じられれば、いい音なのである。



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